phaの日記

パーティーは終わった



 ふと、夏目漱石の『道草』を読み返したくなった。とても地味だけど、好きな作品だ。神経質でインテリ肌の男が自分に無理解な細君だとか金をねだりにくる親戚だとか、生々しい現実的な生活にうんざりいらいらしつづけるという作品、だったはず(おぼろげな記憶)。漱石の自伝的な要素が濃いと言われている。
 冒頭に近い部分の文章を書き写してみる。

 健三は実際その日その日の仕事に追われていた。家へ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。そのうえ彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたいことを書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心はほとんど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。
 娯楽の場所へもめったに足を踏み込めないくらい忙しがっている彼が、ある時友達から謡の稽古を勧められて、体よくそれを断ったが、彼は心のうちで、他人にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚いた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っていることには、まるで気がつかなかった。
 自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼はおぼろげにその淋しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索漠たる曠野の方角へ向けて生活の路を歩いてゆきながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしにいくのだとは決して思わなかった。

 共感する部分だ。自分も同じようなタイプだと思う。こういう人間は、実際の忙しさと関係なく、つねに焦燥感に追い立てられている。そしていつも苛々していて余裕がない。周りの人間に当たったりする。こんなタイプの人間と家族になった人は不幸だろう。

 彼は親類から変人扱いにされていた。しかしそれは彼にとってたいした苦痛にもならなかった。
「教育が違うんだからしかたがない」
 彼の腹の中には常にこういう答弁があった。