phaの日記

パーティーは終わった

羽生善治 挑戦する思考



羽生善治 挑戦する勇気 (朝日選書)

羽生善治 挑戦する勇気 (朝日選書)

 将棋に特に興味はないのだけど、最近「判断力ってなんだ?」「優れた頭脳というのはどういうことなんだ?」ということを考えていたので読んだ。面白かった。


 将棋の世界でプロを目指す人たちにとって、十代の前半というのはとても大事な時期です。「骨格」が決まってしまう時期であるといわれています。
 つまり、序盤の定石や高度な手筋といった情報、すなわち「知識」は、二十歳、三十歳、四十歳になっても身につけることはできるのですが、ある一つの場面について、「この場面ではこの手とこの手しか、選択肢はないだろう」といった、非常に抽象的で曖昧な判断、証明するのが非常にむずかしい感覚的なものというのは、十代前半のときにある程度固まってしまうんです。
 もちろん、それから技術的なレベルが上がっていくということはあるのですが、基本的には、「十代前半で固まった骨格にどういうふうに肉付けしていくか」という話になります。

 恐ろしい話だ。自分が十代の前半(後半も)をかなり凡暗に過ごしてしまったことに対して。
 二十歳を過ぎるともうプロを目指すことができないんだって、システム的に(プロの前段階のなんとか会に入れなくなる)。羽生は十五歳でプロになったそうだ。


 しかし、プロになりますと、自分が実践で指した将棋が、実際に新聞やテレビで流れるわけです。プロ棋士は、ただ白星と黒星をつけるだけではなくて、やはりそれにともなった技術や、人を感嘆させる「なにか」、驚かせる「なにか」があって、初めて成り立っているものだと思うようになりました。
 それは、たとえば瞬時に現在の状況を判断し、たくさんの選択肢の中から、二、三通りの手を直感的に選び出す、そのためにほとんどの選択肢を切り捨てること。そういう判断とか勘のことです。

 対局中は常にできるだけ感情の波を小さく抑えるように努力しています。

 「感情⇔理性」で、「感覚⇔論理」?
 感覚は大事にするが、感情は要らない? 感情・理性は「判断」に関することで、感覚・論理は「情報処理・分析」に関すること、ということ?



 直感的に手を絞り込むという話。

 将棋のプロであっても、常に先のことを読んでいるわけではありません。対局中は、自分がまったく考えてもいなかった、思ってもみなかった局面に遭遇し、そこで「どういうふうに対応したらいいだろう」と思案し、最後に決断するというプロセスの繰り返しです。
 そして、そこで次の一手を決断する際には、直感的に選択肢を絞り込みます。たとえていうと、砂漠の中でオアシスの場所を見つけ出さなければいけないというときには、ただやみくもに探すのではなくて、「この辺にあるのではないか」という目星を付けるでしょう。それと同じように、すべての可能性を思い描くのではなくて、最初に、「このあたりだ」とフォーカスを絞ってしまうわけです。

 理詰めで考えていくより直感的な思考のほうが効率がよさそうだ、と最近わかってきたのだけど、それが何故なのか、直感って何なんだ、というのがよくわからない。
 それが何かがよくわかっていない(論理的・科学的に説明されていない)と納得できないというところがまずだめなのだが。そういう気がするならそれを信じること。それができること。



(集中力を高めるために何かしてますかという質問に対して)

 私の場合は、空白の時間をつくるようにしています。
 長時間集中をしなければいけないときというのは、その前にボーッとしている時間をつくるように心がけています。その間は将棋のこともまったく考えないです。そうしたほうが、集中力が持続するのです。

 茫然としたい。もっと茫然としよう。茫然としなさい。
 公園で。屋上で。温泉で。バリ島で。
 寝転がったり立禅をしたりして、すげーあほみたいな顔をしよう。知識はいらない!