phaの日記

パーティーは終わった

働いたら負けかなと思ってる



7月に仕事を辞めてタイから日本に帰ってきてから、8月、9月は日本国内を放浪してまわっていたのだけれど、10月初めからは東京某所のゲストハウスで定住生活を送っております。移動を続けているときは気づかなかったんだけど、定住すると「毎日特にやることがない」ということが際立って感じられるようになりました。最近の毎日は、散歩したり洗濯したり、図書館に行ったりブックオフに行ったり、漫画喫茶でマンガを読んだり、ネットをぶらぶらしたりサイトをちまちま更新したりという典型的なニート生活です。時間がたくさんあればその分いろんなことができるはずだとも思うのですが、世の中はそうは単純にはできていないようで、本当に暇な生活を送ってると「今日は図書館に行こう」と思ったとして、その日は「図書館に行く」ということだけで一日が終ってしまうのが不思議です。時間というものの使い方は難しい。あと、最近あまりにも人に会わなさすぎて、たまに人に会ったときにまともに喋れない。ちょっとこれはやばいなと思ってる。

先日、友人から電話があった。その友人は、大学院を中退してスロプロになったあと、スロットの殺伐さに飽きて今は九州で焼酎を作っている酒蔵で働いているという経歴なのだけど、僕に電話してくるたびに「働け」と言ってくれる人だ。
彼がその電話のときにこんなことを言っていた。
「最近、仕事のない休日に何をしたらいいかがわからなくて持て余すことが多い。仕事のある日は安定するんだけど。仕事がある日は、自分がどんなに悪い状態とか不安定な状態でも、仕事はきちんと待っててくれる。仕事をこなすのはもう慣れた作業だから辛くはないし、仕事に向かっていると安心する」
それを聞いて、僕に足りないのはこういう点なのだ、と思った。


僕は働いているときに一回も「仕事をしてると安心する」という風に思えなかった。仕事は常に嫌な作業で、お金をもらうために仕方なくやっている作業だった。
組織で仕事をするということは組織が持っているその組織の目標・目的のために自分が働くということだけど、僕はその組織の目標とか組織の存在意義などには全く1ミリも興味が持てず、そんな自分の興味関心と全く関係のない、自分の世界にとってどうでもいいことのために自分の時間や労力を割くのは苦行でしかない、生活するために魂を売ってお金に換えているようなものだ、と思っていた。


でも、世の中のわりと多くの人はそうじゃないんだな。
だからみんなちゃんと働けているんだな。
みんな偉いなあ、と思う。
自分がそういう風になりたいかというと別になりたいと思わないんだけど、例えばナチスの強制収容所で餓室行きを命じられた他の囚人の身代わりとなってんでいった神父が偉いなあというような感じで、みんな偉いなあと思う。僕にとってこの世の中は聖人だらけに見える。


自分にはそういった、仕事や組織のために自分を捧げる感覚が欠けているようだ。
(そういった感覚のことを「社会性」というんだろうか)
そんな自分にとって、今のニート暮らしはとても心地が良い。
働いているときは仕事が嫌だということ以外にも「ここは自分のいるべきじゃない」という感覚が強くてずっと居心地の悪い感じがあったんだけれど、今のニート生活は不安や寂しさもあるんだけれど「自分がいるべきところに収まっている」という感覚があって、それがとても心地よくて落ち着く。だけど、世の中には僕のようではなく、「働いている自分」が「自然」で「理想的」で「居心地がいい」という感覚の人が多いのかな、と思っています。


ただ、今僕がニートをやっていられるのは働いていた時の貯金があるからで、貯金がなくなったら働いたりしなくてはならない(んだろうな)。たぶんその時は、嫌々ながらもお金のために働くんだろう。とりあえず貯金がなくなるまでは自分はこの暮らしを続けていきたいと思う。
日本はだんだん寒くなってきたけれど、頑張ってこの冬を乗り越えて生きてゆきたい。