phaの日記

パーティーは終わった

カネの回らないコンテンツは衰退するのか(短歌を例に)



最近、「ネットでみんな無料でコンテンツを発表するようになってタダでいくらでもコンテンツが楽しめるので、ライターとかミュージシャンとかが食えなくなってしまって文化衰退の危機にある」なんて話をときどき聞くけれど、僕はその話を聞くたびに短歌のことを思い出している。
10年くらい前の学生の頃に、短歌をよく作ったり短歌サークルに顔を出したりしていた頃があった(pha::home > 作品群 > 短歌)。短歌というジャンルはもうずっと昔からカネにならないのが前提で、短歌でカネを儲けようとする人もほとんどいなくて地味で小規模な世界なんだけど、でもそんな状況でもそれなりに新しい若い人が参入してきたり、いい歌が年々生み出されていったりしている。だから、全くカネにならなくてもそれなりに世界は回るしそれなりにいい作品が生み出されていくということを何となく実感として知っている。

ということを書こうと思ったのは、昔短歌をやっていた頃の知人の中島裕介くんが最近本を出して、「短歌をカネにかえたくて」と銘打った出版記念トークイベントがあさっての土曜に開かれるからだ。「基本無料のコンテンツをお金にする」という点ではウェブの世界と通じるものがあるし、どういう内容が話されるのか興味があるので聞きに行くつもりだ。

「いつからだろう、有名な歌人がエッセイ集や小説ばかりを出すようになってしまったのは……」
「なぜなんだろう、歌集を出すときに自腹を切るのは当然のことだとほとんどの歌人が思っているのは……」
 長引く出版不況の果てに、小さな書店からは詩歌コーナーそのものすら消え始めた。歌集の出版で対価を得られる可能性はもう残っていないのか。短歌はもはや「商品」にはなり得ないのか。結社活動? 同人誌? 文学フリマ? 電子書籍? それって、ほんとうに遠くに届くの?
10/13(土) 短歌をカネにかえたくて ―『もしニーチェが短歌を詠んだら』重版祈念トークライブ― at 阿佐ヶ谷ロフトA

もしニーチェが短歌を詠んだら

もしニーチェが短歌を詠んだら

ちなみに下の『oval/untitleds』という歌集では僕が栞文というのを書いています。

歌集 oval/untitleds

歌集 oval/untitleds

短歌というのは売れないし食えないし一般人にほとんど知られていない。俵万智の「サラダ記念日」なんかは異常に売れたけれど、あれは五十年に一回とか百年に一回とかの例外なので参考にならない。読書好きなら穂村弘や枡野浩一の名前を知っているかもしれないけど、それは彼らが短歌以外にもエッセイや小説などを多く書いているからで、短歌だけではそうはならなかっただろう。

短歌を集めた「歌集」というのはその99.9%が自費出版だ。短歌を書く人は、ある程度作品が溜まるとみんな自分で100万とか200万とかいうお金を自分で出して、本を数百部自費出版するのが定番になっている。そうやって出した歌集を、いろんな歌人や「結社」と呼ばれる短歌サークルや短歌雑誌に献本したりしてはじめて、短歌関係者によって形成される「歌壇」と呼ばれるコミュニティで一人前と認められる。短歌には商業出版で採算が取れるほどのマーケットはない。だから短歌だけで食っている人というのはいなくて、著名な歌人でもみんな本業として会社員や学校の先生をやったりしながら短歌を詠んでいる。

短歌の純粋な読者というのはいないんじゃないかと言われたりもする。つまり短歌を読んだり歌集を買ったりするのは自分でも短歌を作っている歌人たちばかりで、そういう数千人とか数万人の短歌の愛好者のコミュニティ内で世界が回っている感じだ。


僕が短歌をあんまり作らなくなったのも、作ってもあんまりカネになんないから、というか、音楽とか小説とかに比べて、良い短歌を作っても少数しかそれを楽しんでくれる人がいないということに物足りなく思ったのがある。それで、短歌よりも観客が多いウェブサービス作りやブログ書きなんかにエネルギーを注ぐようになった。今では短歌はたまに思い出したように一年に数首作るくらいだ。こないだしいか.comというサイトに短歌の選者として参加したりしたけど。

好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君  枡野浩一

短歌を普段読まない人でも分かりやすくて読みやすい、枡野浩一のような短歌を作るっていう手もあるんだけど、それも自分の好みとは違っていた。

短歌に慣れてくると、五七五七七という定められた枠の中でいろいろテクニックを使ったりしたくなるんだけど、そうすると途端に普通の人には読めなくなってしまう。短歌をやっている人は五七五七七の韻律が脳に内在化されているので、多少変則的なことをしてもリズムに従って読んでくれるんだけど、普通の人には鑑賞不能になってしまう。そのへんも僕が短歌をあまりやらなくなった理由なんだよな。まあ、音楽でも美術でも何でも、マニアックなことをすると普通の人には良さが分からなくなるものだけど、短歌の場合元々関わってる人口が少ないから、マニアックなことをすると本当に読者が少なくなってしまう……。
例えば、

ロミオ洋品店春服の青年像下半身無し***さらば青春  塚本邦雄

この歌は巨匠と呼ばれるような歌人の有名な歌だけど、短歌をやっていないと読み方が分からないと思う。
一見、短歌の五七五七七に全然当てはまってないように見える。でも

ろみおようひん/てんはるふくの/せいねんぞう/かはんしんなし/さらばせいしゅん

と読むと、「七七六七七」で実はそんなにリズムを外れてはいない。もう少し詳しく解説すると以下のような感じ。

  • 初句(五七五七七の最初の五)が七音になるのはそれほど読むリズムを乱さないためわりとよく見られる(「字余り」や「字足らず」は「破調」と呼ばれて、定形を乱すことで緩急をつけたり不安定さを出したりするテクニックとして使われる)(単にうまく文字数が収まらなくてちょっとぐらいはみ出てもいいか、くらいのときもある)
  • 「ろみおようひん/てん」みたいに、一つの単語が五七五七七の区切りをまたがるのは「句またがり」というテクニック(これが違和感のないリズムで決まると気持ちいい。慣れてない人には読めなくなるけど……)(Amazonの「もしニーチェが短歌を詠んだら」のページのレビューで「五七五七七に収まってない」って批判してる人がいるけどあれは「句またがり」なんだよね……)
  • 「せいねんぞう」みたいに最後が「おう」とかの母音で終わるのは六音でも五・五音くらいの長さの扱いであまり違和感なく読まれる
  • 「***」は発音しない(視覚的効果と無音の拍を表す)


そもそも短歌というのはカネにならないのが前提になっていて、「短歌をカネにしたい」という意見が口にされること自体が少ない。そういうことを言うのは下品だとか言われかねない雰囲気もある。でも、今でもいい歌やいい歌人はたくさん存在するけれど、もしもっと何かお金が回る仕組みができたり、もっと短歌人口が増えたりしたら、さらにシーン全体が面白くなったり、良い作品がたくさん生まれるんじゃないかとも思う。なので、イベントでどういう内容が話されるのか期待している。

せっかくなので短歌をあまり読んだことない人向けに、最近の(ここ15年くらいの)短歌で好きなものをいくつか紹介してみます。「短歌をやってる」なんていうと「和歌」などを想定して「古風ですね」とか「風流ですね」とか言われたりすることも多いんだけど、そうではなく普通に若者のリアルな表現としての短歌もあるということの例として。

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています  東直子

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

「人生は苦しい」(たけし)「人生はなんと美しい」(故モーツァルト)  永井祐

あと、僕が短歌を好きになったのは穂村弘の短歌を読んだのがきっかけなので穂村弘のベスト盤的な歌集も貼っておきます。よかったらどうぞ。

ラインマーカーズ: The Best Of Homura Hiroshi

ラインマーカーズ: The Best Of Homura Hiroshi

卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピン抜けば朝焼け  穂村弘

恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死  穂村弘