phaの日記

パーティーは終わった

シェアハウスと民主主義



11月2日に東洋大学の学祭で行われた「シェアハウス大会議」というシンポジウムに出演した。
最近ではシェアハウスという言葉もわりとメジャーになったけど、その実態はあまりにも多種多様(不動産業者が運営している数十人や数百人の大規模なものから友達同士が数人でこじんまりと住んでるものまで)でひとくくりに語れるものではないんだけど、とにかく何にせよ「家族」という形式以外でも人が空間を共有して暮らすというスタイルが増えてきているというのは良いことだと思う。

他人と一緒に住むのが家族だけでしかできないのはもったいない。もっといろんなスタイルがあっていいはずだ。イベントでも「一旦シェアで暮らし始めると一人暮らしをするのがバカバカしくなる(狭い部屋のわりにコストがかかりすぎるから)」「ワンルームマンションは独房みたいにしか思えなくなった」みたいな発言があった。

日本大学准教授でシェアハウスを研究テーマにしている久保田裕之先生のお話も面白かった。確か著書の中でも書いておられたと思うけど、シェアハウスと民主主義の関係について、のところとか。

他人と暮らす若者たち (集英社新書)

他人と暮らす若者たち (集英社新書)

民主主義というのは要は「みんなのことはみんなで話しあって決める」ということだ。これは今の社会の原則となっている。 

だけど、それは原則とされているけど実際は今の日本でそんなに実現されてるわけじゃない。選挙だとか政治だとかも、議論を尽くしてどちらが正当かを判断して決められるよりも、その場の勢いとか好き嫌いとか慣習とかで決まっていたりする。政治に限らず会社とかサークルとかなんでも、自分の意見を主張して議論をしようとする人は鬱陶しがられやすい。

そもそも、民主主義で何かを決めるというのを身に付ける機会というのが身近に少ない。家族というのはどうしても親と子の間に力の差があるから、対等な意見を持って議論しあうみたいなことが起こりにくい。じゃあシェアハウスとかで、意見の異なる対等な人間が議論をしながら共同で一つの場所を維持していくというのは、民主主義の基礎を身につける格好の場じゃないだろうか。シェアハウスが「民主主義の学校」のようなものになる可能性もあるんじゃないか、というような話が面白かった。

特に血縁・性愛に基づかない第三者との暮らし、そこでの対話というものが一般的になれば、民主主義は成熟するのではないか、という考察は興味深いものでした。シェアハウスを民主主義の最小単位とし、希望を持ったお話が新鮮でした。
~シェアハウス大会議は無事に終了しました~ | 共同運営実験スペース りべるたん

自分も含めてだけど、日本人はそういう議論とか民主主義とかをめんどくさがる、という傾向はあるなー、と思う。「議論とかするのめんどくさいし、誰かがええように決めといてくれたらええねん」「みんな空気読めよ、めんどくさい異議を唱えたりして話をややこしくすんなよ」みたいな感じだ。人の集まりをうまく回していくのって難しいなー、と思う。でも居場所を確保するためにはなんとかやっていかないとなあ。

今回のイベントの主催であるりべるたんも元気な若者がたくさんいて面白い場所だったし、学園祭なんていう若者が集まる場所に久しぶりに行って、なんか若者たちがいろいろやってていいなー、若者って若いなー、未来は若者の時代だなー、と思った。