phaの日記

パーティーは終わった

街なかに居場所がもっとあればいい



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5月26日に発売になった『持たない幸福論』では精神科医の斎藤環さんに帯を書いていただいたのだけど、斎藤さんとは以前に一度トークイベントでお話しさせていただいたことがある。斎藤環さんといえばひきこもり問題についての第一人者なので、イベントではひきこもりやニート、働くことや働かないことについての話がいろいろと出た。
斎藤さんのひきこもり関係の話で一番興味深かったのは、日本ではひきこもりになるような若者は、イギリスだとヤングホームレスになっている、という話だ。日本だと成人しても子供が親と同居し続ける習慣がある(別々に住むよりもそっちのほうが親孝行だと評価されたりもする)けれどそれは儒教文化圏的な行動らしい。欧米だと成人したら親子でも別々の個人で別々に住むのが当たり前で、親が子どもの面倒を見続けるというのは起こりにくいからひきこもりよりもホームレスになりやすい、ということのようだ。

日本だと、何か問題が起きたときにすぐ責任を家族に負わせるところがあって、それで家族というブラックボックスの中が煮詰まっていろいろと気持ち悪い感じになるのが嫌だなあと僕は思っていたんだけど、かといってひきこもりよりもホームレスがいいとも言えないし、どちらもどちらで大変さがあるな……と思った。

ただ、弱った人や困った人を家族で支えていくという日本的なシステムもだんだん崩壊してきているんだろうと思う。五、六十年前くらいは95%くらいの人が結婚するという総結婚時代だったけれど、そこから婚姻率はどんどん下がってきている。結婚をしない人に加えて離婚をする人も増えているし、単身のまま年をとっていく人はこれから増えていくだろう。斎藤さんは、最近はひきこもり問題について考えるとき、親が死んだあとどうやってひきこもりの子供に資産を残すかもセットで語っていると言っていた。

ひきこもりから見た未来

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ひきこもりのライフプラン――「親亡き後」をどうするか (岩波ブックレット)

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家族というものが全く滅びるとは思わないし、相変わらずまだまだ家族は社会というシステムを支える中心であり続けるだろうけど、昔ほど家族が何でもかんでも面倒を見るという余力はだんだんなくなってきているし、少しずつ家族以外のいろんな繋がりを作っていく方向にシフトしていく必要があるだろう。個人的には、「なんか問題があるとすぐに『親の顔が見たい』とか『家族がなんとかしろ』とか家族の責任を問う」とか「家族はどんなに気が合わなくても助け合わなければならない」とかいうのを息苦しく感じるので、家族を絶対化する度合いが減るのはよいことだと思っているけれど。



ニートやひきこもりが働いていないことで抱える問題というのは二つあって「お金がないこと」と「社会や他人との繋がりがないこと」だ。どっちも深刻なんだけど、僕はどっちかというと「繋がりがないこと」を何とかするほうに興味があって、働いていなくても友達や知り合いや居場所がたくさんあればそこそこ楽しくやっていけるんじゃないかと思っている。『持たない幸福論』の章立てが以下のようになっていて、第四章で居場所について扱っているのもそのためだ。

第一章 働きたくない
第二章 家族を作らない
第三章 お金に縛られない
第四章 居場所の作り方

ひきこもりは別に部屋にこもるのが好きでひきこもっているわけじゃない。一日中部屋から出ないのも精神的にかなりキツい。だけどそれでもひきこもっているのは、いてもいい場所が他にないからだ。働く働かないとは別の問題として、家以外にもゆるく人に会って話したり、のんびり過ごしたりできる場所があればちょっとは楽になるだろうと思う。

「社会や他人との繋がりがなくなってしまう」というのは別にニートやひきこもりだけの問題ではない。専業主婦や定年後の老人なども抱えてしまいやすい問題だ。

要は、家族と会社以外にも、居場所になるような場所が社会の中にたくさんあったほうがいいと思うのだ。趣味の集まりでもネットの知り合いでも何でもいいから、家族と会社以外で他者とのつながりを持つチャンスが生まれるようなゆるい場が必要だ。今の時代は家族も会社も昔ほど一人ひとりの面倒を見てくれるものじゃなくなりつつあるので、小さな居場所をたくさん街なかに作っていくことが大事なのだと思う。

大きな公園に行くと、ベンチで爺さんたちが将棋を指していてその周りに人の集まりができてる、みたいなのがあるけど、ああいうのはいいなーといつも思う。ゆるく集まれる公園将棋みたいな場がもっと街中にあったらいい。小さな公園だと子どもたちだけが元気に遊んでいて、おっさんが昼間から一人でベンチに座ったりしてるとちょっと居心地の悪さを感じるので難しいところだ。

「国境なきナベ団」という活動をやっている人たちがいて、何をするかというと駅前や公園などで突発的に鍋を始めて、興味を示した通りがかりの人たちなんかも巻き込みながら鍋を囲む、という集まりらしい。そういうの良いなと思うんだけど、警察を呼ばれて「撤去しなさい」という警官とのせめぎあいになることもあるらしい。鍋くらい別にいいじゃないかと思うんだけど。

もうちょっと穏当なのでは、公園でブルーシートを敷いてお菓子やお茶を持ち寄ってだらだらするというブルーシートオフとか、ファミレスやカフェでもくもく本を読んだり作業をしたりするもくもく会とか、僕もたまにやったり参加したりしたけどそういうの結構よいと思う。なんかそういう小さな集まりや小さな居場所が、街なかにもっとたくさん生まれればいい。

こないだ東南アジアに旅行した友人が「向こうだと道や公園や駅に飲食物や小物を売る人がたくさんいて楽しいなと思ったんだけど、日本はなんでそういうのがいないんだろう?」と言っていた。

うーん、なんでだろう。日本だって五、六十年前の戦後の時期とかは街にそういう人がいっぱいいただろうと思う。でも、そうしたら他の国でも、数十年経って経済が発展して豊かになったら日本のようになるんだろうか?

なんかそれは豊かさの問題だけじゃない気がする。日本だと電車の中で携帯電話で話してると白い目で見られるのに象徴されるような、「公共の場ではとにかく人に迷惑をかけないように大人しくしていなければならない」という空気のせいも強いように思う。ヨーロッパとかだと電車の中で楽器を演奏する人とかもいるっていうし。日本のそういうところはちょっと窮屈だから、日本的な空気とか世間体とか同調圧力とかがもうちょっとだけ弱まって、もっと路上や公園などで座ったり喋ったり溜まったりできたらいいなと思うんだけど。

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『持たない幸福論』の「はじめに」は幻冬舎plusで読むことができます。


『持たない幸福論』の本文は、cakesでも一部が読めますのでよかったらどうぞ。現在は第一回のみ無料で読めるようになっています。