phaの日記

パーティーは終わった

神様の話



 最近ときどき神様のことについて考える。特定の宗教を信じようというわけではなく、神様のような存在が本当にいるとも思っていないけれど、人間には何か凄いものに戦慄したり畏怖したりする感覚があって、その感覚は人間にとって結構重要なものなんではないか、と思うようになった。そして、そういった感覚を捉えやすくするために擬人化(擬神化)したものとして神様があるのだなあ、と考えるようになった。例えば、いわゆる宗教的なものに限らず、凄い楽器の演奏をする人を見て「鬼神のようだ」と感じたりとか、芸術作品に魂を揺さぶられる経験とか、そんな話。
 そんな感覚を意識するようになったのはある人の影響なのだけど、10月の終わりにその人と鞍馬の火祭について話をしたのがきっかけなのだろうと思う。
 その人が火祭りに行った次の日か次の次の日くらいに電車の中で話していたのだけど、曰く、鞍馬の火祭は凄かったらしい。どこがどういうに凄いと聞いたかはほとんど忘れてしまって、聞いた話の中で覚えているのは祭りのような熱気に溢れる場所で白い褌を締めた若い男の引き締まったお尻は滅茶苦茶カッコイイ、ということだけで、まあそういう凄さというのは祭りの内容を言葉で説明して伝わるものではなく、それを見てきた人が興奮して話すテンションを見て「この人がこんなに興奮するのならそれは本当に凄いのだろうな」とそういったところから伝わるものなので、とにかくぼくもその人が話すのを聞いて「凄いらしい。来年行こうかな」と思った。
 鞍馬の火祭は現在では日本三大奇祭(あとで調べたら京都三大奇祭らしい)とされているらしいが、その人に言わせると、あれは奇祭どころか現代の日本では少なくなってしまった物凄く真っ当な祭りだ、祭りの本道だ、ということだった。それは、観光化されたり地域の結びつきが弱くなったりして、気の抜けた学生をアルバイトで雇って何とか施行されたりする、凄みを全く感じない生温い儀式になってしまった他の多くの祭りと違って、本来祭りが持っているべき熱狂とか戦慄とかがちゃんとあったということだと思う。
 そんなに日本の伝統的な祭りというのはつまらなくなってしまったものが多いという話から、何故日本には祭りがなくなってしまったんだろうという話になって、伝統的なものが駄目になったのならじゃあその代替として現代的なイベントで何かないのか、と考えたときにぼくは、大規模なロックフェスがそれに近いんじゃないか、と言ったのだけど、その人は、確かに現代で一番近いものを探すとそれになるかもしれないけど、ロックフェスには神様がいないからいまひとつだ、と言ったのだった。
「祭りって神様がいないとなんか盛り上がらないんだよね」
「あー、なんかしらんけど、確かに」
「人間より一段高いモノがないとだめだよ」
「何でもいいから何か凄いものを用意して、その周りでフェスやったらいいのにね。すごくでかい岩とか、木とか。」
「あと、ロックフェスとかは、演出がなってないからだめ。イベントのコンセプトとか進行とか全く考えないで、ただそれぞれのバンドが演奏してるだけじゃん」
「あー、確かに。じゃあさー、演出家とミュージシャンと、イベント屋と、芸術家と民俗学者と文化人類学者が集まって、現代的な祭りを作ったらいいのにな」
「そうそう」
「誰かやんないかな。やってよ」
 こんなにぼくにとって神様というものは、イベントが盛り上がるか盛り上がらないか(盛り上がりたいぞ)、という問題で、初めて自分の関心の範囲に入ったのだった。
 盛り上がれなくなってしまったのは歴史的にいつくらいからのことなのだろうか。
 (長くなったのでつづく)