phaの日記

パーティーは終わった

ADHD友の会(必然性と能力)



ニート的人生設計 - phaのニート日記

「俺はニートでふらふらしながら生きてくぜー」的なことを最近書いたりしている僕ですが、それは「好んで」というのもあるけれど、自分としては「もう生きていくにはそれしかないよなあ」という感覚であったりもします。
僕はある種の社会的能力が本当にどうしようもなく欠けていて、他の人が別に普通にこなしていることが全然できなくてずーっと中学生くらいのときから苦労してきて、それで今のような選択に至ったというのがあります。
だから、いわゆる「普通」とされているような仕事環境とかで、僕のように絶望的に苦痛を感じずなんとかこなせている人は、それはそれでいいと思うのです。僕は「普通」に「普通」の仕事をこなせている人を、ものすごく偉い、聖人のようだ、と思ってます。自分には到底無理だ。
コメントやトラバで同じような感覚を持ってる人からの意見ももらったので、そのへんの自分の性質について、ある種の「変な」人間の例として書き出してみます。

絶望的にじっとしていられない

会社とかでずっと机と椅子に座っているということができない。1時間くらいまではわりと普通にしていられるんだけど、それを超えるととたんに集中力と興味を失い、ストレスがたまってイライラして貧乏揺すりしたりノートに落書きしまくったりして、何も頭が働かなくなってしまう。中学とか高校のときからずーっとそんな感じでほとんど授業をまともに聞いたことがない。授業に出てても寝てたり小説を読んだりとかばっかりしてた。興味のある内容ならまだ少しマシだけど、それでもやっぱり苦手。
だから僕は、映画というものを一切見ることができない。大体の映画は1時間半とか2時間とかあるから。途中で耐えられなくなって逃げ出してしまう。
僕は小説も音楽も好きなので所属カルチャー的には映画もある程度見ててもいいようなものだけど、一切映画についての知識がないのはそのため(小説は自分のペースで進められるので平気、音楽は他のことと平行してできるせいか大丈夫)(「体質的に映画を見ることができない」ということを誰かに言っても、大体は理解されず変な顔をされるので悲しい)。「映画を見るのが苦痛じゃない」というだけで世の中のほとんどの人は俺から見てすごい人に見えています。本当に。
作業と作業の合間には2時間くらい散歩したりぼーっとしたりできるのが理想。散歩とか体を動かしているときに一番頭が働く。じっとしていると自分がどんどん馬鹿になっていくのがわかってつらい。

絶望的に飽きっぽい

結構僕はいろんなことに興味を持って一旦はまるとかなりはまるんだけど、興味が移り変わるのも早い。大体3、4ヶ月で一つの波が終わる。ここ最近だけでも、詩を書いたり短歌を詠んだり民族音楽をやったりバンドをやったりヨガをやったり合気道をやったりバックパッカーやったり外国に住んだり英語やったりタイ語やったりプログラミングやったり本当にいろいろやっている(結構どれも中途半端であんまり何も身についてないのだけど・・・)。
ここのところ一番活動しているのはプログラミングなのだけど、これは今年の2月から始めて、そして既に1回飽きている。2、3、4、5月と頑張ってて、飽きて6、7、8月は全然やってなくて、そして9、10、11、12月と来て今に至る。なのでそろそろ飽きてくるはずの時期だ。
ただまあ、一緒にやってる友達がいたり、なにかリアクションとかあったりすると全く興味を失うところまでは落ちずにある程度の興味が続いたりするんだけど。
ちなみに最近はまってるのは、ブルーバックスの数学とか物理学とかの入門書を読むこと。すげー面白い。おすすめは『新装版 物理のABC―光学から特殊相対論まで (ブルーバックス)』とか『無限の果てに何があるか―現代数学への招待 (知恵の森文庫)』とか。今日も図書館で『宇宙核物理学入門』とか借りてきた。

一人でいる時間が一日で数時間は絶対に必要

全く人と会いたくないわけではないのだけど、人とずっと一緒にいると疲れてきて全然頭が働かなくなってしまう。一切の外部からのインプットを断って、ぼーっとしたり一人で頭の中でいろいろ考えを回している時間が絶対に必要。そうしないと自分がどんどん駄目になっていく。

「社交力ゲージ」みたいなものが自分の中にあるとイメージしている。人と喋ったり、喋らなくても一緒にいたりすると、このゲージがどんどん減っていく。ゲージがゼロになると、一切外のことに興味がなくなり、一人でないことが苦痛でどうしようもなくなり、一人になりたくてしかたなくなる。部屋に一人でいたり一人で散歩したりするとゲージは回復する。

だから、僕が仕事をやめたのは、人付き合いをよくするために仕事をやめた、というのもある。仕事をしていると、どんなに早く終わる仕事でも、朝から夕方までは会社にいたり人と会ったりしてなきゃならないので、その時点でゲージを使い切ってしまう。だから終業の時点では「一刻も早く一人にならなきゃヤバい」というパニック状態になっていて、終業後は会社の人との付き合いも、会社以外の友達との付き合いもできるだけ断ってしまうので、付き合いがすごく悪かった。
(別に家に帰って何をするわけでもなく一人でいるだけなんだけど、それをそのまま言うのも言いにくいので「ちょっと用事があって」とか嘘をついて帰らなきゃならないのも嫌だった)
他人と喋るのは2日に1回くらいでいいので、無駄なところで社交力ゲージを使いたくない。今のニート状態だと、基本的に一人でぶらぶらしている状態なのでゲージに余裕があって、人との誘いをあまり断らなくなった。一時期は週3でオフ会やってたくらい。ニートになってからいろんなところに顔を出せるようになって人脈もだいぶ増えた。人脈を広げるためには仕事をやめることが僕には必須だった。

集団に属しているということに耐えられない

それが好きな集団でも嫌いな集団でも、自分が集団の一員であるということにどうしようもなく違和感を覚えて逃げ出したいなあと思うことが多い。
集団で何かをやるのが苦手だ。だって集団で何かをやるってことは、集団が持っている目的のために何かをやるってことで、それは絶対自分が持っている目的とは多かれ少なかれずれている。僕は自分の中から出てくるものを処理するだけでいっぱいいっぱいだと感じている(抽象的に言うと「頭の中で常に爆音で音楽が鳴ってるので外の音楽を聴いている余裕がない」って感じ)ので、集団のために何かをするというのは大体の場合苦痛だ。
これは僕と逆で、集団に属してる状態が落ち着くって人も多いんだろうなーって思う。

ロングスリーパー

7、8時間は寝ないと頭が使い物にならなくてにたくなる


・・・・・
というような性質を抱えて僕は苦労しながら生きてきたのですが、昔は「俺はなんてだめなんだろう」とか「俺も頑張れば普通の人みたいになれるのかな。ならなきゃ」とかいう気持ちを持っていて就職してみたりもしたのだけれど、最近は開き直って「もう仕方ないからこれでいいや」「別にこのまま生きていってもいいや」と思いはじめてきた、というのがニート的に生きていこうとしている理由です。仕事をすることで、自分の中の一番面白い部分がどんどんんでいくのに耐えられなかった。

ADHD

最近ADHDという概念を知ったんだけど、これが僕の性質と結構一致していてびびった(上に書いたものにはADHDとは関係ないのも結構あるけど)。僕は社会生活に支障を来して治療が必要なほどではないので真性のADHDではなくて、ADHDっぽい性質があるという程度だけど。でもそれだけでもそういうカテゴライズがあることを知ってちょっと救われた気がした。

ADHDの特徴

・ちょっとしたことで注意が逸れやすい
・整理能力が低い
・計画性がない
・時間を守れない
・衝動的
・感情的
・自分をコントロールするのが苦手
・常に体や気持ちが落ち着かない(これは大人になると多少改善されます)
・そんな特徴が、同じ知能、同じ年齢の人達の平均に比べて、顕著に見られる。
★以下、最重要↓★
・以上のことが、7歳以下の頃から現在まで続いていて
 生活が困難な程、支障がでている
(↑つまり支障がないレベルはADHDではないというわけ)

ADHDの長所

・発想力
・創造力
・表現力
・気持ちの切り替えが早い
・関心の高いことに関しては、爆発的なエネルギーを持てる。
・好奇心が強い
・『今』を大切にする。
常識に惑わされない。本質を重視する。
・(単純なので)腹黒くなれない。
・情熱的
・ユーモアセンス
漫画で解説ADHD

おとなのADHD―社会でじょうずに生きていくために

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必然性と能力

もし僕がふらふらとした生き方を維持することを実現できるとしたら、それは本当にそれしかできなかったからだと思う。必然性と能力は密接に関連していると僕は感じています(例えば「誰でも身一つでアメリカに放り出されたら英語が喋れるようになるだろう」って感じで)。ない能力は別に必然性がないから身につかないもので、身につかないものは別にそれをやる必要がないんだろう。

そして梅田望夫さん的な「好きを貫け」という話に繋げると、そのとき本当に自分が必要としているものを、「好き」だと感じるように人間はできているのではないかと思う。そして好きを貫くのが難しいのだとしたら、それは自分にとって何がそのとき本当に必要なのか、を見極めるのが難しいということだと思っています。
(そういう考え方がすごくADHD的だという気もするけど・・・)