ずっとダメ人間に憧れていた。
小さい頃からずっと、学校に適応することや友達を作ることが苦手だった。世間の普通から外れて飄々と生きているようなアウトローな人に憧れがあって、中島らもの本などをよく読んでいた。らもさんの本にはどこか変で普通の社会には適応できないけれど魅力的な人たちがたくさん描かれていて、僕もこんな感じで生きていけないだろうか、と思った。
学校は苦手だったけど学校を辞めるほどの勢いがあるわけでもなく、何となく周りに合わせて生きていた僕は、とりあえず大学に進学し、なんとなく就職をしたのだけど、やはりうまく適応できずに仕事は3年ほどで辞め、ニートを名乗って東京へと出てきた。
東京にはふらふらとしている変な奴がいっぱいいて、なんとなくネットで遊んでいるうちにいろんな人間に会うことができた。
それはそれで楽しかったのだけど、いろいろな人に会ううちに思ったのは「自分はそんなにダメではないかも」ということだった。
どうも、人の評価を聞いたり客観的に状況を判断したりしてみると、実は自分はわりと頭も回るほうで、しかも人格的にもそれなりに安定していて人に好感を持たれるほうのようだった。平均よりも。
自分はダメ人間だと思っていたけれど、そんなにダメじゃなかったのかもしれない。それを認めることはショックだった。
自分自身が欠点だらけで大したことがない人間なのは自分が一番よく知っている。うっかりしたミスもよくやるし頭の回転もそんなに良くないし、自分のことしか考えてないし心が狭くてつまらない感情に振り回されることも多い。
だけど、そんな自分がマシなほうだということは、多くの人はもっと頭の中や心の中がゴチャゴチャしていて生きるのが大変なのか。そりゃあ世の中から揉め事や犯罪や戦争がなくならないはずだ。この世界は地獄だなと思った。
東京に来てからよく会うようになった人たちは自分よりもっと生きづらそうな人間が多く、なんとなくそういう人たちの集まりが自然に形成されていった。
家のない奴を家に泊めたり、金のない奴に金を貸したり、警察に保護された奴を引き取りに行ったり、病院に運ばれた奴を引き取りに行ったり、家中の刃物を隠したり、家中の酒を隠したり、自己破産の相談のため法テラスに行ったり、生活保護の申請のためNPOに相談したり区役所に行ったり、死んでしまった奴の葬式に行ったり、消えてしまった奴の部屋を片付けたり、そんな感じのできごとが東京に出てからたくさんあった。
いろいろ大変なこともあったけれど、ちゃんと働いてるけど薄っぺらくて寒いことばかり言ってるような人たちよりも社会に適応しにくい部分を持っている極端な人の生き方のほうに面白さや興味を感じるから面白半分でそういうことに関わってきたのだと思う。
「弱者たちがお互い助け合って生きていけるなんていうのは幻想で、実際は助ける人はずっと助け続けて、助けられる人はずっと助けられ続ける。俺はもう助けるのに疲れたよ」
そんなことを言って去っていった奴もいた。それは確かにそうなのかもしれない。
結局、見返りを求めていると、人のために何かをするなんて割の合わないことだ。面白半分とか興味本位とか、好きでやってるだけとか、助けることによって自分も助けられているみたいなところがないと続かないだろう。
ただ、どんなゴミみたいな集まりでも、仲間がいると良いということは思う。
「この世界は糞だ」ってたった一人で思ってるだけだと、社会全体への敵意を自分の中で発酵させ続け、そのうち無差別殺人を起こして死刑になるくらいしかやることがない。
でも自分の他に「この世界は糞だよな」「全員死ねばいい」「だよな」って言い合える奴がいると、ある程度の問題は起こしたとしても、無差別殺人はしないんじゃないか。多分。
僕自身の生活について。
無職になってからは、せどり、治験、アフィリエイト、携帯乞食などいろいろやっていたけれど、ここ数年は年に一冊くらい本を書いて年収100〜150万くらいで生活している。
だけど、本にしてもそんなに無限に書くことはないし、5年後は何をやって生きているのか想像もつかない。まあ、自分自身に関しては生きていくだけならなんとかなりそうな気がするけれど。
加齢の問題も深刻だ。自分自身の衰えも如実に感じるし、自分の周りの人間も、若いうちは滅茶苦茶な人生でもそれなりにやっていっていたけれど、歳を取るにつれだんだんいろいろとやっていくのが難しくなってきているように思える。
30代はギリギリしのげるとして、40代に突入すると結構やばい気がしている。これからもっとひどいことになるのかもしれない。