phaの日記

パーティーは終わった

タイの物乞いと格差社会



(まだどうもまとまりきってないけど投稿)
 僕はタイのバンコクの中心部に住んでいるのだけど、うちの近所には手足がなかったりする物乞いの人がたくさんいる。観光客が多いエリアに近いからなんだけど。
 物乞いには元締めがいるらしい。朝、彼らは元締めのトラックに乗せられてバンコク市内の中心部まで運ばれてきて、道に一定の間隔で配置される。夜にまたトラックが迎えにきて彼らを回収していく。
 彼らが稼いだお金のうちどれだけが元締めに回収されるのか知らないが、多分ほとんど持っていかれてるんじゃないか。それでも障害を持った彼らにとっては、そこで物乞いをする以外に生きていく道はないんだろう。
 しかも彼らはタイ人ではない人が多いらしい。その元締めが、タイより貧しい隣国のカンボジアなどを回って、障害をある人を見つけてきては連れてきているようだ。その障害のある彼らにとっても、彼らの家族にとっても、その元締めに貰われていくのが一番マシな選択肢だったりするのだろう。
 騒音と排気ガスだらけの舗道に座って一日中物乞いをし続けている彼らを見るたびに、彼らの人生と自分の人生は全く違うと感じる。自分は幸せだと思う。彼らと自分は階層や身分が全く違うと感じる。
 僕はときどき財布の小銭を彼らが持っているカップに入れる(だいたいは小銭が邪魔だという理由だけど)。そうすると彼らは有難そうに頭を下げる。
 タイでは「タンブン」と言って、貧しい人に恵むと徳を積むことができて天国に行けると考えられている。そのせいか彼らはよく物乞いに恵む。タイにたくさんいる欧米人も、タイ人とは違う価値観に基づくものだろうけど、これもよく恵む。
 タイに来て、日本人は恵むということをあんまりしないと思った。日本ではホームレスの人は「自己責任」とか「努力が足りない」とか批判される。
 階級がはっきりしている社会では上の階級の人は(絶対に超えられない拒絶の一線を引きつつも)下の階級の人に優しいのかもしれない。日本は「一億総中流」とかそういった感覚があるから、落ちこぼれている人は階層のせいではなく、本人の責任だとされるのかな。
 上の階層の人が下の階層の人を「努力が足りない」とか言って批判するのもよく見かけるけど(なんかこないだはてだで暴れてた人もいたね)。なんか変な感じがする。貧しいのは本人のせいだけじゃなくて、「階層の固定」「階層の再生産」といった世の中のシステムのせいもかなりあると思う。
 まあそれだけ日本が豊かであるってことだろうとも思うけど。

以下断片的に

  • 戦後日本が豊かになったのは「日本人が勤勉だったから」というのもあると思うけど「アメリカの傘の下でのんびりできた」というのも大きいと思う。だけどこの後者についてはあんまり語られない。語るのを嫌う。状況ではなく自分たちの努力の成果であることにしたがる。というのは、上の問題と構造的に似てない?
    • 「歴史においても個体発生は系統発生を繰り返す」とか言ったら岸田秀みたい?
    • ていうか同じ性質の違う局面での表れにすぎない?
      • しかし外国行って思うのは日本人は本当に勤勉だよね
        • 勤勉さに重きを置くよね
  • natureかnurtureか
    • それはまた違うか
    • でもこれについても日本人はどっちを好むのか気になる

文化資本について補足というか途中に挿入しようとして書きかけて力つきた部分

 実際には日本でも、出身階層によってその人が進む階層が決まる、という状況は普通にあると思う。「文化資本」(参照→» フランス暴動と文化資本)という考え方があって、これは階層の再生産というのは金銭的な理由ではなく、精神的な理由によるものも大きいということを説明している。低い階層に育った人は、その低い階層の生活習慣や趣味、嗜好、物の考え方などを身につけるため、金銭的なハードル以外にもその習慣がハードルになって上に上がれなかったり、下の階層の考え方を身につけるとそもそも上の階層に上がりたいと思わなくなってしまったりするということだ。「誰でも真面目に勉強すれば上の階層に上がれる」ということが言われる場合、この文化資本について見逃されていることが多い気がする。