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ツイッターの「おすすめ」に慣れてきた
一時期はあんなに嫌いだった、ツイッターの「おすすめ」タイムラインに、だんだん慣れてきてしまった。
ツイッターにはもともと、フォローしている人のつぶやきが時系列順に並ぶという、一種類のタイムラインしかなかった。
ところがあるときから、ユーザーの好みに合わせてツイッター社がおすすめするつぶやきが並ぶタイムラインが登場した。これが「おすすめ」タイムラインだ(英語では「for you」)。
最初は、「おすすめ」なんて全く要らない機能だと思っていた。
「おすすめ」だとフォローしていない人の興味のないつぶやきが流れてきたりするのがストレスだった。時系列順に並んでないと理解できないつぶやきが意味不明になるのも嫌だった。
ツイッター社は「おすすめ」をやたらとおすすめしてきたのだけど、余計なことをするな、と反感を持っていた。
自分の見たいものは自分で決める。おすすめアルゴリズムなんかに決められたくない。
ツイッター社が経営に困っているなら、多少課金してもいいから、何も加工していない素のタイムラインを見せてくれ、と強く思っていた。
しかし、あまりにもツイッター社がゴリ押ししてきたせいもあるけれど、最近、「おすすめ」でもいいか、と思っている自分に気がついた。
なんとなく拒絶感を持っていたけれど、確かに何も加工していない素のタイムラインを見るより「おすすめ」のほうが面白いかもしれない。
他のサービスを見回せば、ツイッター以外のウェブサービスは、YouTubeもInstagramも、全部おすすめ的なタイムラインを採用している。そして、それはそういうものだ、と思って問題なく見ていた。
それなら、ツイッターがそうなっても別にいいのかもしれない。
ただ、「おすすめ」タイムラインが採用されることで、ツイッターも普通のSNSになってしまったな、と感じた部分はあった。
では、普通のSNSになるまでは、なんだったのか。
多分、誰かが管理するSNSではない、生のインターネットの混沌、みたいなものを自分はツイッターに求めていた。
しかし、その無編集の混沌に、いい加減疲れきってもいたのだと思う。
「おすすめ」タイムラインが快適になってきたのは、アルゴリズムが進化して、よりクオリティが上がったせいもあるのだろう。
しかしそれだけではなく、ウェブの空気感の変化というか時代の変化というか、自分の中で一つの時代が終わったのだ、という感慨がある。
一体何が終わったのだろうか。それは、20年近く前に「Web2.0」という概念がもてはやされた頃に自分に刻み込まれた、「ウェブを利用してよりよい自分やよりよい世界を目指していくべきだ」という観念だ。
今はもう、よりよい自分なんて目指さなくていい。AIのおすすめに従って、AIの与えてくれるものを享受していればいい。
そのほうが、自分で決めるより幸福度が高い気がする。
*
Web2.0というのは2000年代半ば頃に流行した概念で、当時新しく出てきていたブログやSNS、wikiなどによる、新しいウェブの流れを指していた。
大まかな雰囲気としては、
「今までのウェブは技術や資産のある一部の人だけが使えるものだったけれど、今は誰でもブログやSNSを使えるようになった。これからは誰もが平等に発信者になれる時代だ。みんなの投稿でウェブ上に人類の叡智が集まっていって、その集合知を誰でも無料で使えるようになるから、世の中はよりよいほうに変わっていくだろう」
といった感じだ。
とにかく、ここから新しいものが始まっていく、これからどんどん人類の社会は進化していく、という希望に満ちた雰囲気があった。
僕自身も、その雰囲気に大きく影響を受けた一人だった。
会社を辞めて上京したのも、インターネットでいろんな人と繋がって、インターネットに全てを発信していればなんとかなる、と思っていたからだった。
当時は口癖として「インターネットすばらしい」とよく言っていた。ネットには全てがあると思っていた。できるだけ多くのRSSフィードをLivedoor Readerに登録することで、誰よりも世界を把握できると思っていた。
インターネットには、リアルでは吐き出せない本音がたくさん漂っている。上っ面だけの会話をするよりも、ネットを見たほうが人間の本当を見ることができる。
ネット以前の人間は、会社や家庭など、限られた人間としか交流を持てなかった。でも今のわれわれは違う。ネットを使うことで、数千、数万の人間の近況を知ることができる。そうすると、おのずから物の見方も変わってくるはずだ。
少ない人間としか接していないと考え方も偏狭なものになってしまう。それに比べて、ネットで厖大な人間の情報に触れる自分たちは、バランスのよい、視野の広い考え方を身につけられるはずだ。
そう思って、毎日毎日高速で何百何千ものフィードを読み続けていた。ひたすら大量の情報を読むことで、もっとすごい自分になれると思っていた。
ネットに触れることで、どんどん自分が拡張していって、どこまでも行けるような気がしていた。
ちなみに、Web2.0が話題になった時点では、まだスマホもTwitterも登場していない。
当時のウェブの話題の主流としては、みんながブログを書いて、Wikipediaに知識が集積され、グーグルが全てを検索可能にする、すごい、革命的だ、という感じだ。
その後、ゼロ年代の後半にツイッターとスマホが登場し、情報の発信はますます誰でもできる手軽なものになっていく。
一部のギークたちが使うインターネットから、誰もが使うインターネットへ。ユーザーが増えるにつれて、さまざまな企業がネットに進出するようになり、広告などを通じてたくさんのお金が回るようにもなった。
*
それから十数年が経った。
当時よりさらにテクノロジーは進んで、ネットは便利になった。
しかし、今のネットは昔より殺伐としていて疲れるもので、それほど夢のあるものではなくなってしまったと感じる。
今から振り返ると、昔みんながウェブの未来に抱いていた夢は、楽観的すぎたのだろう。
あの頃はなぜ、ウェブが進化するとみんなが幸せになると、あんなに無邪気に信じられていたのだろうか。
結局、Web2.0の描いていた理想というのは、性善説に基づいていたということなのだろう。
一部のエンジニアや新しいもの好きの人たちがネットのメインユーザーだった頃は、それでもうまく回っていた。
みんながネットがよくなるために無償で貢献し、その成果をみんなが無料で受け取ることができた。
現実の資産を全人類に平等に分類するのは難しいけれど、ネット上に置かれた知的な資産は、全ての人類が無料でアクセスできる。
そこには現実世界では実現のできなかった、平等で理想的な世界が広がっているように思えた。
だけど、ネットが一般化して、一部のギークだけではない普通の人たちがネットを使うようになった結果、ユーザーの善意だけではネットの秩序を守れなくなった。現実と同じように。
誰もがツイッターをやるようになって起きたのは、果てしない炎上や不毛な論争だった。
現実では出会うことのない人たちが出会ったり、現実では見ることのない本音にアクセスできるようになった結果、人々は無限にぶつかり合うことになった。ヘイトを煽るようなコンテンツでアクセスやお金を稼ぐ人間も増えた。
ツイッターは、人間の怒りや嫉妬と相性が良すぎた。ツイッターは、人間の集合知を集める場所ではなく、人間の負の感情を増幅させる装置になってしまった。
人間の感情や認識はネットがない世界で発達したものなので、ネットには向いていないのかもしれない。人類にはネットは早すぎた。
制限のないまま人間たちをネットワークの中に放り込むと、トラブルばかりが起こって誰も幸せにならない。
だから、システムの側で、トラブルが起きないように、管理してもらったほうがいいのだろう。AIによるおすすめを見ているほうが、平和で楽しく過ごせるのならそれでいい。
当時、Web2.0について語った代表的な本であった梅田望夫の『ウェブ進化論』(2006、ちくま新書)を開くと、「不特定多数無限大への信頼」というフレーズがある。
これからの時代はネットの向こう側にいる「不特定多数無限大」の人々への信頼が大切だ、という話だ。以下はグーグルの創業者たちが感じた感動についての描写だ。
コンピュータ産業市場第二の「破壊的な技術」インターネットに、つまり、パソコンの向こうに世界中の人々や情報という「無限の世界」が広がっている可能性に十代で出会って感動したのである。不特定多数無限大とも言うべき厖大な数の見ず知らずの人々がネットの向こうに存在することに。そしてその人々との間の相互作用を瞬時に空間を超えて行えることに。いつも世界につながっていることに。世界中に蓄積・更新されている知のすべてにアクセスできる可能性に……。
僕も当時この思想を信じていたけれど、十数年かけてだんだんと、ネットの向こうにいる不特定多数と繋がれば何かすごいことが起きるだろう、という期待はなくなっていった。
そして今では、ネットの向こうの不特定多数の人間よりも、AIのほうが信頼できるような気持ちになっている。
*
『ウェブ進化論』には「知の高速道路」というフレーズも出てくる。これはもともと将棋棋士の羽生善治の言葉から来ていて、誰もがITとネットを使うことで、高速道路に乗って、今まで以上に一気に自分を高めることができる、という話だ。
本の中では「高速道路の向こうの大渋滞」という新しく生じた問題についても語られるのだけど、どちらにせよ、そこにはよりよい未来に向けての希望と向上心が感じ取れる。僕も昔はその思想に共感して、ネットを使うことでより進化した自分を目指していた。
しかし、今はネットを使うことで、自分がよくなっていくような希望や向上心をあまり抱くことができない。
今はツイッターを見てもYouTubeを見ても、自分の好みのコンテンツが無限におすすめで流れてくる。その情報の洪水から感じ取れるメッセージは「特に向上なんてしなくていい。この無限のぬるま湯の中に浸っていればいい」というものだ。
かつての自分にとって、インターネットとは、自分をどんどん自由にして、変化させてくれるものだった。
それに対して今のインターネットは、自分をひたすら自分のままで甘やかしてくれるものになった。
今はもうそんなに成長したいとも思わない。AIがいい感じに調整してくれたコンテンツを見ていればいい。どうせ、AIのほうがこちらよりも有能なんだし、自分で考える必要はない。もう、がんばらなくていい。
そんな自分を、2007年の自分が見たら、堕落した、と蔑むだろう。
ただ、向上心がなくなってしまったのは、ネットの情勢の変化とは別に、自分が単に年を取って、20代から40代に変化してしまったせいなのかもしれない。
今の若い世代は、今のネットの状況でも、「ネットでどんどん面白いことをしていくぞ、俺たちはこれからだ」と思っているだろう。
自分の加齢による変化とネットの情勢の変化がちょうどシンクロしていて、どちらがどれだけ要因になっているのかわからない。
今わかるのは、自分がかつて信じていたやり方は時代遅れになっている、ということだけだ。
どうすればいいんだろう。どうもしなくていいか。
もうがんばらなくていいんだし、全部AIに決めてもらおう。
追記:
ここまで書いたところで、次のニュースを見た。
「おすすめ」に表示されるのが、4月15日から有料ユーザーだけになるらしい。「おすすめ」は結構ありだと思いはじめてきたところだけど、これが実現するとちょっとキツいかもしれない。
イーロン・マスクという一人の大金持ちの意向に左右されてしまうネット空間、これはしんどい。
現世的な価値基準にとらわれず、誰にも支配されない、何者からも自由な理想的なインターネットというものは、やはり存在しないということを実感させられつつあるのだろうか。世知辛い。
(イーロン・マスクがやるといった施策には、本人が言った期限を過ぎてもいつまで経っても実装されないものがたくさんあるので、これも実際どうなるかわからないが……)
自動化された店が苦手になってきた
店で人と話すのが面倒だから、全部セルフレジやセルフサービスになってほしい、と昔から思っていた。人と接すると会話エネルギーを消費する。だから誰とも接触せずに、一言も発さずに外食をしたい。
最近は実際にそういうシステムの店が増えてきた。券売機で食券を買うと、自動的に注文がキッチンに送られて、呼出番号がモニターに表示されたら自分で料理を取りに行く。そして食べ終わったら自分で食器を返却口に返す。大手の牛丼チェーンなどでもそうしたシステムが採用されている店が増えている。
それは自分にとって理想的なはずだったのだけど、ちょっと最近は、あまりにも自動化されているのも嫌かもしれない、という気持ちが出てきた。
例えば大規模チェーンの回転寿司などに行くとそう感じる。最近は醤油にいたずらした動画が炎上したりしていたけれど、ああいう事件が起こりやすい理由はわかる。完全に自動化されていて人間の目がないから、いたずらをしやすいのだ。
店に着くとまず「いらっしゃいませ」という自動音声に出迎えられて、タッチパッドで人数を入力する。レシートが発行されて、そこに書いてある席まで移動しろ、という指示を受ける。カウンターに着席して、紙おしぼりを勝手に取って手を拭いて、湯呑みに粉末状のお茶を入れてお湯を注ぐ。タブレットで寿司を注文すると、レーンを寿司が流れてくる。「ピコーン、ご注文の商品が届きました。気をつけてお取りください」と自動音声が流れる。
それをぱくぱくと食べて、食べ終わったら精算をする。精算もセルフレジだ。機械にお金を投入するとお釣りとレシートが出てくる。自動音声の「ありがとうございました」が鳴り響く中、店を後にする。店に入ってから食事を終えて出るまで、一言も発する必要がない。
こういった一連の、全く人を介さない流れは、自分が理想としていたもののはずなのだけど、そこになんだか殺伐さを感じるようになってしまった。レーンを流れている寿司と同じように、自分もレーンを流れていて、寿司を胃袋に入れてお金を払うだけの機械として扱われている感じがしてしまうのだ。
実際に店からすると、客というのはお金を払う機械で、それをどうやって効率よくさばくかというのが商売なのだろう。大規模チェーンだとさらに、一人ひとりの客を人間扱いしている余裕はなさそうだ。
だけど、それがあまりにも剥き出しになっているとしんどい。もうちょっと、人間らしく扱うふりをしてほしい。人間扱いを求めるならもっと高級な店に行けばいいのかもしれないけど、お金がないと人間扱いされないのは嫌な社会だと思う。
そんなことを感じるのは年を取って中年になったせいなのだろうか。若いうちは元気があるから人とのふれあいなんてどうでもいいけれど、年を取るにつれて生命力が弱ってくるにつれて、寂しくなってコミュニケーションを求めるようになるのだろうか。
加齢によって心情が変化するというのもあるだろうし、育ってきた時代の習慣が抜けないという理由もあるかもしれない。
ときどき、コンビニやファミレスなどのチェーン店で、店員と長々と世間話をしようとするお年寄りを見かける。昔は店の人と雑談をするのが普通だったから、そのときの感覚で話そうとしているのだろう。でも、今のチェーン店はそんな雰囲気じゃないし、そうした時代の変化に慣れていないのだろうな、と思ってしまう。
自分もそんな感じの年寄りになるのだろうか。10年後や20年後、若い人が完全に自動化された接客に特に違和感を持たない中で、僕ら世代の年寄りだけが、「機械の接客は寒々しい」「人の温もりがない」「ディストピア」とか時代遅れな愚痴を言っていて、若い人たちに疎ましがられるのだろうか。
それは嫌だ。時代についていきたい。でも、世代によってついていける限界というのも、あるのかもしれない。
最近、近所のファミレスに行くと、猫型のロボットが料理を運んでくる。これはあまり嫌じゃない。
回転寿司が嫌で猫型ロボットがいいのはなぜだろう、と考えてみると、猫の顔がついていて、「ありがとうニャン」とか、かわいい声で話すからだろうか、と思った。
冷たい感じの自動音声で「道を開けてください」とか言われると、ちょっとイラッとして「機械のくせに態度が大きくないか、人間の野蛮さを見せてやろうか」とか思ってしまうけど、かわいい声で「道を開けてほしいニャン」って言われると、「おお、ごめんごめん、今すぐ開けるね」って思ってしまう。
なんだ、語尾に「ニャン」がつくだけでいいのか。それで満足するなんて、ちょろすぎないか、自分。
でも、結局そういうことなのかもしれない。人間らしく扱われているような雰囲気、それがあればいいのだ。
今は多分まだ、過渡期なのだ。今までの自動音声はわざとらしさや寒々しさが残る印象のものが多かったけれど、これからはそうした印象面の改良が進んでいくだろう。そして、だんだん機械によるコミュニケーションの満足度は上がっていって、接客的な仕事はどんどん人間から機械へと置き換わっていくだろう。
最近話題のChatGPTなどを見ても、AIによるコミュニケーションの進化は目覚ましい。下手な人間よりAIと話したい、という段階がもう訪れつつある。そして、そのAIに、「ニャン」とか「ぴょん」とか、相手のことを気遣う定型句など、印象を柔らかくする文化的なガワをかぶせれば、すぐに人間を超えてしまいそうだ。
それでも、こんなに丁寧な対応をしてくれるけど、これは結局AIなんだよな、と思うと、ちょっと冷めてしまうところはあるだろうか。
ゲームでネット対戦をしていると、ときどきBotが交じっていることがある。Bot相手だと白けるところがちょっとある。負けると悔しがるような、人間に勝って悔しがらせたいのだ。Botだと勝っても負けてもあまり感動がない。でもBotだと思って戦っていたら実は人間だった、ということもあるし、その逆もある。
そもそも、会話をしているのはAIか人間か、どちらかわからないくらいになったほうが面白いと思う。どちらかわからないグレーゾーンがたくさんある、みたいな世の中がカオスでいいんじゃないか。
人間だってどうせ大したことを考えていなくて、反射や癖や定型句で受け答えをしているのがほとんどだし、実はあまりAIと変わらないのだ、きっと。
人間と話すとき、相手の中には心がある、と信じて会話をしているけれど、本当にあるのかはわからない。あるかわからなくても、相手の中に心がある、という雰囲気があればそれで満足する(心とはそもそもなんなのだろう)。
それだったら、AIに人間ぽい感情パラメータや若干のランダム性や相手に気遣いをする定型句を組み込んで、心っぽいものをを持っているような雰囲気を出させれば、コミュニケーション相手として十分な役割を果たしそうだ。
リアルで会うと肉体を持っているかどうかで人間だと認識できるけど、ネットや電話ではどちらかがわかりにくくなる時代が結構近いのでは、と思う。
そしてそのうち、リアルでも人間そっくりの精巧なボディを持ったAIが出てきて、人間とロボットの境目がわからなくなって、ロボットに自我や人権はあるのか、というところで悩むようになるのだ。そんなSFは昔からたくさんあったけれど、その世界に近づいているというのはちょっとワクワクする。
とりあえずそっけない感じの自動音声を全部廃止して、全部演技力のある声優などの声に置き換えて、顔とかをつけて、それぞれの機械がキャラを持っているような外装にするだけでも、だいぶ世界の手触りが変わると思う。
自販機もATMもスマホも車も、全てが自我を持っているような雰囲気がする世界。それは、動物や植物や岩や山にも人格が宿ると信じていた、古代のアニミズムの世界にも近いのかもしれない。
(↑アンドロイドが自我を持って悩むゲーム、おすすめです)
面白かった本2022
毎年年末に書いている、今年面白かった本を紹介する恒例の記事です。
去年の11月に『人生の土台となる読書』というブックガイドの本を出したんですが、去年はその本を書くために大量の本を読みまくってたせいで、書き終わったあと、しばらく反動で「本を全然読みたくない……」という状態に陥っていました。
その時期が11月くらいまで続いていたので、ちょっと今回は少なめです。漫画はあいかわらず読んでいたので漫画を多めにしました。あと文章が読めない時期も短歌は読めたので、歌集もいくつか。そんな感じでお送りします。
漫画
縞野やえ『服を着るならこんなふうに』
ファッションに苦手意識がある主人公が、妹や友人からいろいろアドバイスをもらってファッションの面白さを知っていく漫画。最近ちょっとファッションに気をつけてみようと思っていたので、興味を持って一気に読んだ。
かなり実用的な内容で、買う服の参考になる。ユニクロがとても推されていて、「とりあえずユニクロがあれば一通りなんとかなる」という内容なのが頼もしい。
どういう内容が書かれているかというと、例えば僕は「無地のTシャツってなんか肌着みたいな感じがする」と思って避け気味だったのだけど、この漫画の主人公も同じことを思っていて、でも、漫画の中で「しっかりした生地と形の無地のTシャツはむしろ大人っぽくて万能」というのを解説してくれていて、参考になった。

そして、ファッション知識を得られるだけじゃなく、漫画としても楽しい。嫌なところがなくて嫌な人も出てこないけど面白い。
僕は、いろんなウンチクや雑学が盛り込まれていて勉強になる上に漫画としても面白い、という漫画が昔からすごく好きで、例えば『鉄子の旅(初代)』や『めしばな刑事タチバナ』などをずっと何度も読み返して愛読しているのだけど、『服を着るならこんなふうに』も同じ枠としてとても楽しんでいる。
11巻が「30~60代のファッション編」になっているので、僕と同じような中年男性諸氏におすすめです。この巻だけでも。GUで売ってる1500円のシェフパンツが履きやすくてよかった。
カレー沢薫『ひとりでしにたい』
叔母が孤独死したことをきっかけに終活について考え始める30代独身女子の話。終活についての知識をいろいろ解説してくれる部分もいいんだけど、元カレや同僚男子と対決する心理バトルのパートがすごく良くて、引き込まれてしまった。カレー沢さんはオタクっぽい話とかソシャゲの話とかいろいろなものを書いているけど、こういうのも書けるのか……と驚いて、それからずっと連載を追いかけている。

あちゅむち『エロティック×アナボリック』
ひたすらエロい体を作るために厳しい食事制限や筋トレなどのボディメイクをする女子と、その子をモデルにして絵を描こうとする男子の話。エロい体はたくさん出てくるけどエロい展開は全くなくて、二人ともひたすらストイックに自分の道を追求しているところがすごく好き。筋トレや食事についての雑学も多め。

入江喜和『ゆりあ先生の赤い糸』
50歳既婚女性が主人公で、夫が寝たきりになったり、夫の愛人(男)が発覚したり、自身も恋人ができたりする話なのだけど、ロマンスがメインではなく、ロマンスが他にあってもそれでもなかなか簡単に切れるものではない結婚とか夫婦とか家族という関係性とはなんなんだろう、というところが主軸の物語。ちょっと理想的すぎるところはあるかもだけど、「拡張家族」的な話が好きなので楽しんで読んだ。

安島薮太『クマ撃ちの女』
北海道でハンターとしてクマを撃ち続けている女性主人公の話。狩猟についての知識も面白いし、各キャラの描き方も上手で引き込まれる。自然とのギリギリの戦いの話はいつも面白い。

うすくらふみ『絶滅動物物語』
リョコウバトやドードーなど、人間によって絶滅した動物の、絶滅にいたるまでのエピソードを書いた漫画。勉強になる。学習まんがとして子どもにもすすめたい感じの漫画だ。

高橋ツトム『JUMBO MAX』
違法なEDの薬を作る、自身もEDの薬剤師が犯罪に巻き込まれていく話。高橋ツトムさんの漫画といえば『地雷震』とか『スカイハイ』とか、触れると怪我しそうなくらいに鋭い美男美女が出てくるイメージがあるけれど、今作は冴えないでっぷりとした中年男性が主人公なのがいい。主人公のおっさんが、「理解できるし同情できるところもある」というのと、「こいつヤバいし最悪だ」という二つのどちらともはっきりと決められない得体の知れないままで物語が進んでいくのがスリリング。

香山哲『プロジェクト発酵記』
漫画の連載をする前の、連載の準備についてを、連載にしたという不思議な形式の本。
「読者を想定する」「編集者と意見交換する」「自分のリソースを考える」など、あるプロジェクトを実行するときに、アイデアをどう考えて、どう肉付けして、どういうふうに立ち上げて進行していくか、というやりかたが漫画形式で細かく書かれている。
香山さんの『ベルリンうわの空』は、よりよい生活をするためにはどういう場所がいいか、ということをベルリンでひたすら考えていた本だったけど、今回の本も同じような雰囲気があって、要は何かをするための環境整備オタクなのだ。やる気とか雰囲気とか流れとかでなんとなくやるのではなく、徹底的に前提条件を整備するのが好きな感じで、その整備っぷりが突き抜けているので楽しい。何か新しいことを始めるときに参考になる本だと思う。

エッセイ、ノンフィクションなど
山本文緒『無人島のふたり: 120日以上生きなくちゃ日記』
膵臓がんで突然余命120日と告げられた山本文緒さんが、死の直前まで書いていた日記。山本さんは昨年、58歳で亡くなっている。山本さんの小説は一冊も読んだことがないのだけど、本屋で見つけて気になって買ってしまい、読み始めると引き込まれて、面白い、と言っていいのかわからないけれど、一気に読み切ってしまった。
少しずつ衰弱していきつつも、頭脳の働きは衰えないまま、死へと一歩一歩近づいていく思考が描かれていく。
余命宣告を受けてから世間と隔絶されたように感じて、突然夫と二人で無人島に流されてしまったようだ、というのがタイトルの由来なのだけど、終盤では、「いよいよ夫は本島に戻って、私だけが無人島に残るときが来たのだ」という記述があって、なんとも言えなくなる。
この本を読んでから、「そのうち僕もこんなふうに突然死ぬのだろう」という気持ちが高まってきて、怖い。もう自分はがんになっているのかもしれない、と、一日に何度も考えてしまう。
自分もいつか死ぬんだよな。死ぬ前にやりたいことを全部やっておかないと、と思うけれど、そんなにやりたいことはもうないと言えばないんだよな。この本では、余命120日と告げられた筆者が、「生きているうちにあの本の刊行だけは見たい」と言って、大急ぎで出版をするのだけど。
58歳で亡くなるのは早いなと思う。僕は今43歳なのであと15年か……。しかし、人の介護の話などを聞いていると、80代や90代になって認知症でよくわからなくなって寝たきりで何年も生きるよりは、山本文緒さんのように頭が働いているうちに半年ぐらいの闘病で亡くなるほうがいいのかもしれないとも思ったりする。
でも、そんなのは自分で選べるものではないのだろう。与えられた状況をなんとか生きて行くしかない。とりあえず人間ドックに行こうか。
鶴見済『人間関係を半分降りる』
「友人、家族、恋人など、どんな人とでも近づきすぎるとしんどくなるので、もっと距離を取ろう」ということが書かれた本。
鶴見さんと言えば『完全自殺マニュアル』などが有名で、過激な主張をする人というイメージがあるかもしれないけれど、実際に会って話すととてもおだやかな雰囲気な人だ。この本は鶴見さんの本の中で、一番鶴見さんの人柄がそのまま出ている感じで、とてもよかった。
最近は自分の人生の生きづらさについて書いた本がたくさん出るようになったけれど、鶴見さんが本を出し始めた90年代はそういう本が出る雰囲気ではなかった。心の病なども、みんなが共感できるものではなく、興味本位のキワモノコンテンツとして扱われていた。
そんな時代だったので、鶴見さんの初期の本には社会的な視点が多かったのだろう。そんな鶴見さんが、最新の本では今まで書いてこなかった自身の家族の話などを書いているのが、新鮮でよかった。
刊行記念で僕と対談した動画もあるのでそちらも合わせてよかったら。
小田嶋隆『諦念後 男の老後の大問題』
今年6月に65歳で亡くなってしまった小田嶋さんが、60歳以降の「定年後=諦念後」について書いたコラム集。
内容は蕎麦を打ってみたりジムに行ってみたり病気で入院したりと、「定年後の男たちはどう過ごすべきか」というテーマの話で、そんなにすごいことが書いてあるわけではないのだけど、小田嶋さんの文章はオダジマ節というか独特のグルーヴがあって、そのノリは健在で、楽しめた。文章による芸があった人だと思う。亡くなってしまったのが惜しい。
三宅香帆『それを読むたび思い出す』
書評家である三宅香帆さんの初エッセイ集。自伝的な内容で、誰かにその人の大事な思い出を聞かせてもらうのっていいな、という基本的なエッセイの良さを感じさせてくれて、とてもよかった。
「東京が全ての中心でそれ以外は辺境に過ぎない」みたいな思想への反発として、それぞれの地方にはそれぞれのよさがある、ということを語っている話がいい。著者と同じように地方で育った本好きの人たちへ向けてのメッセージなのだろう。京都の思い出や、ブックオフやイオンモールのよさについて書かれた文章が好き。
岸本千佳『もし京都が東京だったらマップ: くらべて楽しむ「街の見方」』
京都に行ったときに河原町の丸善で買った。もともとはウェブで話題になった記事で、それは前に見たことがあった。
四条大宮は赤羽、烏丸は丸の内、叡電沿線は中央線沿線、とか京都と東京のいろんな街を例えていく本なんだけど、最後に「それでも鴨川だけは東京のどこにも例えられなかった」って書いてあるのがすごくよかった。
東京の街では、池袋はうまく例えられる街がなかったそうだ。確かに、あの池袋の都心だけどなんかごちゃごちゃした多国籍な感じがあって、活気だけはあるけどまとまりはない感じ、京都にはなさそう。
米本和広『我らの不快な隣人 統一教会から「救出」されたある女性信者の悲劇』
著者の米本和広さんは、安倍前首相を暗殺した山上容疑者が犯行前に手紙を送っていた人だ。統一教会を脱会させるために家族が信者を拉致監禁して、「逆洗脳」するというメソッドがあってそれを請け負う人たちもいるらしいのだけど、その拉致監禁でPTSDを発症し、統一教会も家族も両方信じられなくなって、居場所をなくしてしまった人の話がたくさん紹介されている本。
結構キツかった。統一教会にも賛同できないけど「家族の言うことを聞けないのは洗脳されてるからだ」と無理やり拉致監禁してくる家族にも反感を持ってしまう。統一教会も家族推しだし(だから合同結婚式とかさせるし)、家族という概念が一番悪いのではという気持ちになる。
そもそも、「あいつは洗脳されていて話が通じないから監禁して説得するしかない」となってしまうのは、もともと家族間でちゃんとお互いを自立した個人として尊重して話し合うことができていない関係性だったから、ということを思ってしまう内容だった。
「家族も友人も恋人もあまり深くつながりすぎないほうがいい」という鶴見済さんの『人間関係を半分降りる』を中和剤として一緒に読みたい。
米本さんの本は、僕の『人生の土台となる読書』でも少しだけ紹介したのだけど、ヤマギシズムについて追った『洗脳の楽園』、カルト信者の家庭に生まれた子どもを追った『カルトの子』など、どれも面白かった。
田近英一『凍った地球』
夏、すごく暑かったので涼しそうな本が読みたいと思って読んだ本。
ときどき現実逃避的に純粋な楽しみとして、自分の書く文章とは絶対に関係しなさそうな本を読みたくなって、そういうときはこういうサイエンスの本を読んでる。ブルーバックスとか。
この本はスノーボールアースについての本だ。スノーボールアースというのは、この地球は昔全部凍っていたことがある、という仮説だ。まだ仮説だけど、かなり信憑性のあるものと扱われているらしい。
地球は温暖な時期と氷河期を繰り返しているということはなんとなく知っていたけど、その理由をはっきり把握していなかったので、とても面白かった。数十万年とか数百万年単位の気温の上下には、プレートテクトニクスが関わっているのだ。
気温の上下は二酸化炭素による温室効果によって変わる。二酸化炭素は火山活動によって地面から放出されてもいるけど、岩石の酸化作用で気体から固体へと固定されてもいる。
そして、二酸化炭素が増えて気温が上がると岩石の酸化が進んで二酸化炭素を減らす現象が起こり、二酸化炭素が減って気温が下がると岩石の酸化が少なくなって二酸化炭素を増やす現象が起こる、という、自動調節機能が地球には実装されているところがすごく面白かった。これをウォーカーズフィードバックという。すごい絶妙なバランスだ。
(ちなみにこのフィードバックは数万年とか数十万年単位で効果が出るものなので、最近よく言われる人類のCO2放出による地球温暖化みたいな数十年とか数百年単位の話には効かない)
下の気候ジャンプの話も好き。
ある程度寒くなって地表に氷が増えると、氷は日光をよく反射するのでさらに寒冷化が進み、一気に全球が凍結する気候ジャンプが起きるというのが面白い pic.twitter.com/8yKTuXC3NL
— pha (@pha) 2022年6月28日
小説
佐藤究『テスカトリポカ』
アステカ文明で生贄の心臓を捧げてた話とメキシカンマフィアの残虐な抗争と麻薬マーケットや臓器売買マーケットの話が混ざりあって日本の川崎でぐちゃぐちゃになる話。暴力シーンがキツくて人が死にまくって面白くて、分厚い本だけど分厚さを感じさせない。神話的なもの(この場合はアステカ)を引いてくると物語に深みが出る感じがする。後半部分のカオスをもうちょっとじっくり見たかった気もした。
アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』
太陽エネルギーの減少という地球の危機に立ち向かう一人の科学者が主人公のSF。同じ作者の『火星の人』と一緒で、主人公以外の人間があまり出てこなくて、主人公もシンプルな性格なので、流し読みで読んでも筋がわかるし読んでて疲れない。
基本的に一本道の話を進んでいくだけなのであまり驚きはないのだけど、ハラハラしたりワクワクしたり泣きそうになったり、「この本を読んでいけば必ず一定の楽しさが与えられるだろう」という信頼をずっと持ち続けられる作風の小説。作者はウェブ小説出身らしく、確かに読みやすくてウェブ小説ぽくて、日本のなろう系とかとも通じるものがある気がする。
短歌
本を読めない時期も歌集だけは読めたので、今年は歌集ばかり読んでいました。今年の文学フリマで出した『ELITES vol.6 特集 短歌VS小説』という同人誌で、今年読んでよかった歌集として、平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』、伊舎堂仁『感電しかけた話』、雪舟えま『たんぽるぽる (短歌研究文庫)』、吉田恭大『光と私語』、橋爪志保『地上絵』の5冊を紹介したので、それ以外でよかったものを紹介しておきます。
舞城王太郎「短歌探偵タツヤキノシタ」
文学フリマで買ったナナロク社の『若い山賊(仮)』という冊子に収録されていた。ファウスト系+短歌というのがうちのエリーツの企画と丸かぶりだったのでこれが出ると知ったときはびっくりした。
内容は、木下龍也さんが短歌を一首作って、舞城さんがそれに合わせた小説を書くという形式。9歳くらいの少年、タツヤキノシタが主人公で探偵役。思った以上に短歌とがっぷり組み合った内容で面白かった。
驚いたのは、この短編を百本書くらしいということ。短編百本ってすごい。ショートショートとかじゃなくてそれなりの文字数のある短編だったので、百本は一冊に収まらないだろう。全10巻とかで出すつもりなのだろうか。すごいプロジェクトだ。
実際はどうかわからないけど、第一話を見ると、木下龍也さんが作った短歌がまず最初にあって、それを元にして舞城さんが話を考えたように見える、という作品だった。今後どんなふうに続いていくのか楽しみ。
瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』
この20年の短歌シーンを瀬戸夏子さんが概説しながら歌集を紹介していく本。いろんな歌集の歌を解説付きで少しずつ読めてお得な一冊。僕の短歌知識はゼロ年代半ばの永井祐や斉藤斎藤あたりで止まってたので、これを読んで最近の歌集をたくさん知ることができた。
中立的な紹介ではなく、瀬戸さんの好みと独断をばんばん盛り込んでいく思い切った感じがよくて、切れ味のある文章がとにかく痛快。
ここから下は個別の歌集です。
五島諭『緑の祠』
1月27日に安くてコンパクトな版が新しく出るみたい。
物干し竿長い長いと振りながら笑う すべてはいっときの恋
海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海を見ている
歩道橋の上で西日を受けながら 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah
いろいろ歌集を読んだ中で、自分もこういう歌が作れたらいいのに、と一番憧れたのは『緑の祠』だった。激しい感情は少なくて淡々としているけれど、ロマンチスト的なところや言葉でちょっと遠い世界に飛躍しようとしているところがときどき見えるのが素敵。
鈴木ちはね『予言』
スロープと階段があってスロープのほうを下ればよろこびがある
東京に住民票を置かないで住んでたころに見ていた川だ
マンホールの模様に地域性が出るみたいな話をしていたら 海
鈴木ちはねさんの短歌は、淡々と平凡なことを言っているだけのようで、なんかよくて、じっと何回も読んで反芻したくなる。すごくしっかりと周りを観察している人だと思う。ちはねさんの歌を読むことで、その冷静な観察の背後にある人格や人生に少しだけ触れることができた気がして、それがなんだか気持ちを揺さぶるのだと思う。
土岐友浩『Bootleg』
肝心なことはともかく夏草を見てきたことを話してほしい
夕食を終えてしばらくしたあとで普通の服で見に行く蛍
フルーツのタルトをちゃんと予約した夜にみぞれがもう一度降る
土岐さんの歌を読むと落ち着く。無理のない単語と文体でかっこつけない感じなんだけど、読むとなんだか良くて、何度も読み返したくなる。派手なことを何もやってないのに退屈しないのは何故なのか不思議。ずっと大事に持っていたい歌集だ。
枡野浩一『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』
さようなら さよなら さらば そうならば そうしなければならないならば
好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君
そのことを忘れるために今はただ小さいことにくよくよしたい
枡野浩一さんの今までの短歌のベスト版的な歌集。枡野さんの本は今まで短歌の表示のしかたにすごく凝っていた(横書きとか写真と一緒にとか)のだけど、今回の本では初めて普通の歌集みたいに、文字だけで一ページ一首を収める、という作りになっている。そうしたシンプルな作りが、歌の力をより引き立たせている。枡野さんの歌は、失われてしまったものやできなかったことに対する切なさを詠んだ歌が好きだ。
* * *
2022年の面白かった本はこんな感じでした。いかがでしたでしょうか。
今年の終わりくらいから、ようやく歌集と漫画以外の本を読む気力が復活してきたので、来年はいろいろ読んで、また文章を書いていくつもりです。2023年もよろしくお願いいたします。
2022年の活動まとめ
今年は本当に休んでいた一年だった……。
去年の末に『人生の土台となる読書』を出してから、文章を書く気力も読む気力もなくなってしまって、ひたすらだらだらしていた。
思えば僕が最初に本を出したのは2012年で、もう10年前なんですよね。読んだり書いたりも10年やるとさすがに飽きてくるものかもしれなくて、ちょっと休んでもいいかな、と思っていたら、いつの間にか一年経っていた。
生活費としては、以前に出した本の印税の貯金を少しずつ使っているのと、本の電子書籍の売上が半年ごとに入ってくるのと、あとはnoteの売上が月4万くらいある、という感じで、なんとかやっています。
来年はもう少し動いたほうがいいか。いや、あまり自信がないな。
仕事はしていなかったけれど、それなりにいろいろやることがあって忙しくはあった一年でした。
具体的には、バンドと同人誌と短歌の3つです。どれも大してお金にはならないけど楽しかった。
バンド

40代の作家たちで結成した文学系ロックバンド、エリーツも、もう結成から3年以上たちますが、今も仲良く活動しています。今年はライブを4回もやった。がんばった。
作家バンドが集まるSAKKA SONICはまたやろうという話があるのでよかったら見に来てください。

同人誌

今年は本を一冊も出さなかったけど、同人誌は結構作っていました。書く気力はなかったけど、本を作るとか、文学フリマで本を売ったりするのは好きなんですよね。
『曖昧日記』はカオスなシェアハウスに住んでいた頃の日記をまとめたものです。1と2、どちらから読んでも大丈夫です。
あと、エリーツでも文学フリマのたびに同人誌を出しています。
短歌特集号は、僕が全面的にかなり気合を入れて作ったのでよかったら読んで下さい。短歌初心者にも短歌マニアにも楽しめる内容になったと思っています。
短歌
まったく文章を書く気や読む気がしないときでも、短歌だけは頭の中に入ってきたので、20年前の大学時代ぶりに、短歌にハマって作ったり読んだりしていました。
短歌関係では3つ動いていて、1つ目は上で書いたエリーツの短歌特集号の制作、2つ目は第五回笹井宏之賞への応募(残念ながら入賞はしませんでしたが)、3つ目は短歌アンソロジー『おやすみ短歌(仮)』(枡野浩一、佐藤文香との共著)(実生社)の執筆です。
1つ目、2つ目は完了したのですが、3つ目は現在進行中です。2023年中には発表できるはず。
その他
今年の初めのほうは、「文章を書く気がしないならトークとかYouTubeとかをやってみよう」と思ってちょっとやってみていたのだけど、なんか続かなかったな……。いくつか動画が残ってるのでよかったら興味のある人は聴いてみてください。大体雑談です。
* * *
2022年は人生の夏休みのような一年でした。
若い頃のようなエネルギーのあふれる夏休みではなく、晩夏というか、40代も半ばにさしかかってきて、自分はもう若くないということを認めつつ、その上で何をやっていくかをゆっくり考える時期だったというか、そんな感じでした。ちょうどいろいろなことのやり方を変える時期がやってきていたのでしょう。
来年は多分またエッセイとか書くと思います。

最近文章が書けなくなった
正確にいうと、書く意欲が湧かなくなった。
僕は、ネットとかにあれやこれやの思ったことを書き続けていれば人生はなんとか進んでいくだろう、と思って今までやってきた人間なので、書けなくなるのは困る。これからどんなふうにやっていけばいいんだろう。
なぜ書けなくなったのだろうか。いろいろ思い当たることはある。
・大体書きたいことは書いてしまった
・長く書き続けてきたので自分の書くことに飽きてきた(会社をやめてブログを熱心に書き始めてから15年、最初に本を出してから10年)
・シェアハウスをやめて一人暮らしになったのでいろんな情報にさらされる度合いが減った(最近はテレビとかよく見ていて普通になった)
・ネット全体の雰囲気が自分に合わなくなってきた
・40代になっていろいろエネルギーが減ってきた
かつての自分は、ツイッターに断片を書き散らす→そういうのがある程度まとまったらブログに書く→もっとまとまった内容は書籍にする、みたいな感じで物を書いてきたのだけど、そのサイクルがどこかに失われてしまった。
僕が今まで書いてきた本には二つの方向性があったと思う。
一つは、自分自身のちょっと変わった体験や考えを書くこと。『どこでもいいからどこかへ行きたい』とかエッセイ系はこの方向性が強い。
もう一つは、自分が本で読んだりした内容を、わかりやすく伝えること。『人生の土台となる読書』などの本はこの方向性が強い。
本によってそれぞれの比率は違うけど、大体この二つが交じっているのが僕の本だと思う。
一つ目の体験や考えについては、自分がシェアハウスをやめてわりと普通の暮らしになったというので、書くことが減ったというのがありそうだ。
二つ目の知識の噛みくだきについては、自分の引き出しにあるものは大体伝え終わってしまったのかもしれない。
そうやって、書くことが思いつかなくなってきた。
いや、本当は昔も今も、自分の中にあるものはそんなに変わってないのかもしれないとも思う。
変わったのは、別に大したことがない自分の考えを、これは発表するに足るものだ、と思い込む力がなくなってしまった、というところなのかもしれない。勘違いがなくなってしまっただけなのかも。
20代とかの若い人を見ていると、いろいろやっていくぞ、という気迫にあふれていて、いいな、と思う。
たくさん考えて、たくさんわけのわからないことをして、たくさん失敗をして、それでも進んでいく、そんな時期が自分にもあった。
若さとは勘違いに過ぎないのかしれないけど、そもそも人生だって全部勘違いみたいなものだろう。
何かに勘違いして夢中になれる力がもう一度ほしい、という気持ちと、そういうのはもう疲れるからいいや、という気持ちが、両方自分の中にあって揺らいでいるという、43歳の秋です。みなさんはいかがお過ごしでしょうか。
* * * * *
最近は新しく文章を書く気力がないので昔に書いた文章をまとめたりしているのですが、シェアハウスに住んでいた頃の日記をまとめた『曖昧日記』全2冊を発行しました。カオスなシェアハウスの生活が終焉を迎えるまでの記録です。
BOOTHでの通販のほか、東京の高円寺・蟹ブックス、荻窪・Title、下北沢・日記屋月日、渋谷○○書店、大阪・シカク、福岡・ブックバーひつじがでお買い求めいただけます。
「俺はもうだめだ」という気分
昔に比べて文章が下手になってしまった、と思う。
以前はもっと、スッと意味の通るわかりやすい文章が一発で書けていた。それが今では、なんだかもたもたした、わかりにくい文章しか出てこなくなっている。
何度も見直して書き直せば、わかりやすい文章を作ることはできるのだけど、昔に比べて余計な手間がかかるようになった。
これは四十代になって、加齢の影響が出てきたということだろうか。多分そうなんだろう。
僕は二十代の頃から「全てがだるい」と言っていたけれど、今思うとその頃は今より全然元気だった。
あの頃は毎日のように面白いアイデアを思いついていたし、たくさんの人と会って話したりする元気もあったし、本を読んで感動をすることも多かった。
今は、体力は落ちたし肩こりもひどくなった。頭の回転も悪くなったし、感受性も鈍ってきた。自分の中にあった良いものはすっかり失われてしまったし、今後もさらに衰えていく一方なのだろう。もうだめだ。
こんなことなら元気なうちにもっと自分の能力をいろいろ活かしておくべきだったと思うけれど、人間は愚かだから、失うまで自分の持っているものの素晴らしさに気づかないものなのだ。
だめだ 俺はもうだめだ
──ゆらゆら帝国 "ズックにロック"
しかし、また別のことも思う。
僕は若い頃からずっと「大事なものが失われてしまった、もうだめだ」という気分を持っていた。
二十代前半くらいの頃にはすでに「十代の頃に比べて、自分の頭は働かなくなってしまった」「道を歩いているだけで心を揺さぶられるようなみずみずしい感受性は失われてしまった」と思っていた記憶がある。
三十代の頃も、「もうおっさんになってしまった」「大抵のことはやってしまって、やりたいことが思いつかなくなった」「もうだめだ」と思っていた。
多分、僕の脳が持っている基本的な気分が、「大事なものが失われてしまった、もうだめだ」という感じなのだと思う。
昔からそういう気分で生きてきたから、前向きに成長しようとか、大きなことを成し遂げよう、ということはあまり思わなかった。過去をうじうじと振り返りつつ、喪失の気分に浸っているほうが好きだった。それが僕という人間の基本的性質なのだろう。
そこで思い出すのは、二十代の頃、ずっとゆらゆら帝国が好きだったことだ。
僕がゆらゆら帝国が好きだった理由は、「大切な何かが失われてしまった喪失感」がずっと歌われていたからだ。虚無や喪失について歌う坂本慎太郎のけだるげな声を聴くと、とても心が落ち着いたのだ。
昔の仲間は一人ずつ
はなれて今ではもういない
──ゆらゆら帝国 "太陽のうそつき"
頭振っても楽しくない
腰を振ってものれない
ぼく本当はいろんなこと
いつも考えてたのに
──ゆらゆら帝国 "昆虫ロック"
大切なものが音をたてずに壊れたの
シャボンのように
──ゆらゆら帝国 "ドックンドール"
ゆらゆら帝国解散後の坂本慎太郎のソロの楽曲では、喪失を嘆くという段階から一つ進んで、喪失はもう当たり前のものとしてあるからその虚無の中で淡々と踊り続けるしかない、という曲が増えているように感じる。
初期ゆらゆら帝国の頃のような強い情念はないけれど、心地よい平坦な空虚さがあっていつまでも聴いていたくなる。
どうせこの世は幻 なんて 口にしちゃだめだ
もううっすらみんな知っている
──坂本慎太郎 "ナマで踊ろう"
何やってんだろうね はぁ 踊ろう
何やってんだろうね はぁ 踊ろう
──坂本慎太郎 "好きっていう気持ち"
坂本さんも、僕と同じようにずっと虚無や喪失を基本的な気分として持っている人なんじゃないだろうか。
だとしたら、そうした気分を持っていることは悪いことじゃない。その気分から、ゆらゆら帝国の名曲たちがたくさん生まれたのだから。
しかし、こうも思う。
自分が四十代の今感じている虚無感や喪失感は、今まで感じていた、気分だけのものではなく、わりと本物のやつなんじゃないか。
実際に肉体的な衰えは感じている。頭の働きも少し鈍くなっている気がする。「何かが失われた気がする」のではなく、実際に何かが失われているのだ。
だとしたらどうすればいいのだろうか。
今までは気分だけの喪失感だったけれど、今はそれに実際の喪失がともなっている。
つまり気分と実態が一致したということだ。ようやく、自分の気分に自分の実態が追いついたのだ。
ということは今が一番、自分が自分らしさを発揮できる年代なのかもしれない。今こそが完全な自分なのだ。
いや、しかし、僕という人間の面白い部分は、若いけれど喪失感をずっと持っている、というミスマッチな部分だったのかもしれない、とも思う。
中年になって喪失感を持っているというのは、わりと普通だ。
つまり、年を取ることで、他の人と同じような、別に珍しくない、普通のつまらない存在になってしまったのかもしれない。
どちらに転ぶのだろうか。よくわからない。
何をやるにしてもとりあえず、今までとはやり方を変えなければいけない、ということだけはわかっている。
最終回の 再放送は
最終回の 再放送は
最終回の 再放送は
無い!!
──ゆらゆら帝国 "無い!!"
追記
完全に忘れてたけど、13年前の30歳のときにも「もう30歳になって頭が働かなくなってきたからだめだ」って記事を書いて、ゆら帝の曲を貼ってた。自分全然変わってないな……。
どうせ俺らは早く死ぬ
このあいだ編集者の人と原稿の打ち合わせをしていたのだけど、いいアイデアが全く出てこなかった。
若い頃は人生の中で面白いことやワクワクすることがたくさんあったから、感じたことをそのまま書いていけばよかった。だけど、40代に入ったくらいから、心が動くことがあまりなくなってしまった。そうすると何を書けばいいかわからなくなった。若さの終わりを感じる。もう、自分に書けることはなくなってしまったんじゃないだろうか。
そんなことを思ったままに話すと、編集のTさんは「では、そういう気持ちをそのまま書くのはどうでしょうか」と言った。
「過ぎ去った若さについて書くとしても、50代になってから書くと、もう完全に枯れきった感じの遠い目線になってしまうと思うんですよ。でも、40代初めの今ならまだみずみずしい喪失感を書けるんじゃないでしょうか」
確かに、それはそうかもしれない。それは今しか書けないことな気がする。
40代くらいで、僕と同じような虚無を抱いている人は他にもいるだろう。そういう人たちに向けた文章になるのだろうか。中年には中年にしか書けないことがあるのかもしれない。そういう方向性でちょっとやってみようか。
なんとなく思い出していたのは、去年見たあるライブのことだった。
ステージの上では、黒いパンツ一枚だけを履いたスキンヘッドの中年の男が、あまり上手くない歌声で、一生懸命に声を出していた。
どうせ俺らは 早く死ぬ(老害)
どうせ俺らは 早く死ぬ(老害)
どうせ俺らは 早く死ぬ
どうせ俺らは 早く死ぬ
若者よりも 早く死ぬ
黒いパンツにはテルミンが取り付けられていて、ときどき彼が股間に手を伸ばすたびに、キュイーーーンと異音を放つ。
大阪が生んだ、よくわからんおっさんの一人ユニット、クリトリック・リスだ。
僕はなんだか自信がないときに、クリトリック・リスの動画をよく見る。
特にカッコいいわけでもなく、歌も上手くない、たるんだ体の中年のハゲのおっさんが、パンツ一丁でステージに立って全力で歌っている姿を見ると、少し元気が出てくるのだ。
カッコ悪くたっていい。才能なんてなくてもいい。若さなんて必要じゃない。どうせそのうち死ぬんだから、中年になっても老人になっても何もできなくても、生きているうちは自分の精一杯をやっていくしかない。そう開き直れる気がしてくる。
クリトリック・リスをやっているスギムさんは、全く音楽経験がなかった36歳のときにたまたま飲み屋で誘われて、音楽活動をすることになったらしい。*1
僕はクリトリック・リスの曲では、『桐島、バンドやめるってよ』や『1989』など、若くて楽しかった頃の記憶を懐かしみつつ、それでも今を生きて行くしかないんだ、という哀愁と前向きさが込められた曲が好きだ。
最近ずっと何もやる気がしないけど、もう少しだけ何かをやってみようか。もう何も大したことができないかもしれないけど、それでも人生は続いていくのだし。
同じ喫茶店
5日連続で同じ喫茶店に来ている。これは自分としては異常なことだ。
今までの自分なら、毎日同じ場所に行くのが嫌で、必ず違う店に行っていた。それだけではなく、毎日同じ町にいるのも嫌で、いろんな違う町に用もないのに出かけていたくらいだった。
それが、そういうのが面倒だ、と思うようになってしまった。環境を変えるのは疲れる。同じのが続くのがいい。それで近所の知ってる店にばかり通っている。
そして、それと同時に前向きな行動力や創造性もなくなってしまった。
僕はぼーっとしながら電車に乗ったり、ぶらぶら歩いたりするときにいろいろなことを思いついたりしていた。そういうのがなくなってしまった。ここ2週間くらいはほとんど人と会わず、家でゲームをしたりテレビを見たりしているだけだ。
毎年冬は塞ぎこみがちなのだけど、それだけではなさそうな気がする。やはりこれは加齢によるものなのだろうか。
何も気力がない。昔からずっと「だるい」とか「やる気がない」とか言っているので、「またいつものやつか」と思われそうだけど、今のこれは今までとは明らかに違うやばい感じがしている。
面白かった本2021
毎年書いている、今年読んで面白かった本のまとめです。
今年はブックガイド本『人生の土台となる読書』を出したので、その関連の読書が多かったかも。マンガは『このマンガがすごい!2022』でも審査員として選んでいるので、そちらもよかったら見てみてください。
では行きます。
- をのひなお『明日、私は誰かのカノジョ』
- 星来『ガチ恋粘着獣 ~ネット配信者の彼女になりたくて~』
- 増村十七『バクちゃん』
- ネルノダイスキ『いえめぐり』
- 上野千鶴子・鈴木涼美『往復書簡 限界から始まる』
- 荻原魚雷『中年の本棚』
- TVOD『ポスト・サブカル焼け跡派』
- 植本一子『ある日突然、目が覚めて』
- 最果タヒ『パパララレレルル』
- 三田三郎『鬼と踊る』
- 佐藤文香『菊は雪』
- 松村圭一郎他『働くことの人類学【活字版】』
- ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』
- 江永泉、木澤佐登志、 ひでシス、役所暁『闇の自己啓発』
- 劉慈欣『三体』三部作
- ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン』
- リチャード・C・フランシス『家畜化という進化』
- キャスリン・マコーリフ 『心を操る寄生生物』
- 過去の記事
- 2021年のまとめ
をのひなお『明日、私は誰かのカノジョ』
今年は『明日カノ』が面白すぎましたね。レンタル彼女の仕事をしている女性たちの生き方の話。
ストーリーがそんなに甘くないところと、みんなしっかりと強く生きているところがいい。今の若者の言葉遣いとかをうまくすくいとっているなと思う。
5巻から始まるホスト編で、夜職の人たちを中心に一気に人気が加熱したらしい。このホスト編で出てきたキャラ、ゆあてゃがすごくいいんですよね……。ゆあてゃと萌ちゃんの関係性が良すぎた。

先が気になりすぎて、サイコミのアプリで毎週10ページくらいを読むのに120円課金してしまう。単行本を売るよりアプリの売り上げのほうが儲かってそうで、すごいビジネスモデルだなと思う。
今、AmazonでKindle版が、期間限定で3巻まで無料になっているのでぜひ。
星来『ガチ恋粘着獣 ~ネット配信者の彼女になりたくて~』
男性ネット配信者グループと、彼らにガチ恋している女子たちの話。
一人目のヒナのエピソードは典型的だしホラーだな、という感じだったけど、二人目の琴乃さんの、推しのことは好きだけど推しの隣に自分みたいなロクでもない人間がいてほしくない、みたいな葛藤ぷりがすごくよかった。

上で紹介した『明日カノ』でもネット配信者の話をやってるし、最近「推し」とか「ガチ恋」とかについてのマンガがめちゃ増えたなと思う。
増村十七『バクちゃん』
バク星人のバクちゃんが宇宙から現代日本に移民としてやってくる話。SF仕立てのところもあるけれど、基本的には現代日本で外国人移民が突き当たる問題みたいなのを書いている。といっても硬いだけの社会派的なマンガではなく、かわいいキャラが動き回る、マンガ的な楽しさにも溢れている。

海外の国のこととか、外国の人とか、人間はよく知らないもののことを警戒する癖がある生き物だ。だけど、その対象についてちゃんと知れば共感することができるようになる。相互理解のためにとても良いマンガだと思った。
残念ながら2巻で打ち切りになってしまったらしいけれど、打ち切り後に評価が上がっているみたい。
ネルノダイスキ『いえめぐり』
ネコのような登場人物たちが変な不動産物件を見て回る話。
とにかく大量の不思議な物体の書き込みがすごくてドサイケ。特に最後の物件は圧巻なのでサイケが好きな人はみんな読んでほしい。

上野千鶴子・鈴木涼美『往復書簡 限界から始まる』
上野千鶴子と鈴木涼美の二人が「恋愛」「性」「仕事」「自立」などのテーマに沿って、主に女性の生き方について語り合う往復書簡。
二人とも普段は文章がとても巧みだ。しかし、巧みに書けるからこそ、深く掘り下げて語らずに済む部分があったのだろう。この本は、往復書簡という形式を取ることで、二人が今まで語っていなかったであろう部分があらわになっている。二人がどう生きてきたかが、迷いも含めて正直に語られていて、すごくよかった。
荻原魚雷『中年の本棚』
中年の著者が、中年に関する本、いわゆる「中年本」を紹介していくという書評集。中年の生き方に迷っている身として面白く読んだ。
荻原魚雷さんの本の紹介のしかたはいいな、と思った。自己主張はさりげなくて、本に寄り添って丁寧に本の良さを紹介している、という感じで。見習いたい。
僕が中年本で思い出すのは、『中年の本棚』でも取り上げられている、竹熊健太郎さんの『フリーランス、40歳の壁』かな。
竹熊さんはヒットした仕事の二番煎じをするのが嫌で、同じような依頼は断って、新しいことばかりをしようとしていたら仕事がなくなってしまった、と語る。そういう飽きっぽさは自分にもすごくある……。
TVOD『ポスト・サブカル焼け跡派』
音楽と政治の関係について、70年代から現代までを振り返りながら、80年代生まれの男性二人、コメカとパンスが語り合う対談本。
世の中の資本主義的な大きな流れと、その流れに各アーティストがどのように立ち向かい、もしくはどのように寄り添っていったか、という歴史が語られていく。取り上げられるアーティストは70年代の矢沢永吉、坂本龍一から、現代の星野源、秋元康、大森靖子まで。
「歌は世につれ、世は歌につれ」と昔から言うし、政治というのは人間が社会と向き合う姿勢のことだから、どんなことでも政治と関係あるんだな、と思った。
さまざまなアーティストが取り上げられている中で、僕が好きだと思ったのは、ファンクバンド、じゃがたらのボーカル、江戸アケミだ。
資本主義的な大きな世の中の流れについて江戸アケミは苛立ちを表すのだけど、安易に仲間や共感を求めるのではなく、あくまでビートやグルーヴを中心に置いて、ただ「お前自身の踊りを踊れ」と言っていて、そこがいい。僕も「お前自身のだるさを信じろ」とか言いたい。
パンス 具体的なイデオロギーこそないし、政治的な活動をしていたわけでもない。それよりももう少し射程が広いというか――日本人の精神性自体に対する苛立ちがあったと思うんだよね。ただそれは憎しみのような形での表出ではない。かといってひねくれてもいない。とにかく直接的。非常に稀な存在だと思う。
「でも・デモ・DEMO」の、「あんた気に食わない」「暗いね 暗いね 日本人って暗いね」ってフレーズが好きだ。
ゲームマスターとしての秋元康、という話も面白かった。AKBグループで何か問題が起きたとき、秋元は主体的に説明や謝罪をせず、「それはAKBという空間の中で彼女が自主的にやったことだから」みたいな立ち位置に立つ(本当は権力を持っているはずなのに)。それは、現代日本において、あらゆることが自己責任化される風潮、というのとリンクしている、とか。
植本一子『ある日突然、目が覚めて』
2021年6月から7月の日記。新刊でも紹介したけど、植本さんの日記はなぜかずっと読み続けてしまう。作中で何かすごい事件が起きるというのではないけれど、その日常の手ざわりにずっと触れていたくなる。
最果タヒ『パパララレレルル』
短編や掌編がたくさん収められた作品集。どれも短いのだけど、予想と微妙に違う言葉の連続に振り回されるのが心地よい。1ページくらいで収まる長さの作品も、ズババババッ、と世界を切り裂いていって、その裂け目から何か面白い景色が見えた気がする、という瞬間に終わる、みたいな感じでいい。
「愛とか恋とかの話にならなくちゃ、ポップカルチャーにならないんですけど」
「そういうのは死んだ奴に任せておけばいい」
「恐竜の卵」より
三田三郎『鬼と踊る』
歌集。特に大したことの起こらないこの平凡な世界は、普通のように見えるけど実は異常なのではないか、と、淡々とした調子で語りかけてくるような感じがいい。
足元にください冷気ではなくて猫をあるいは強い打球を
キッチンでうどんを茹でている人にドロップキックをしてはいけない
2分後に暴言を吐く確率を見積もりながらビールおかわり
ワイドショーを気が狂うまで観たあとの西日は少し誠実すぎた
なぜここは歯医者ばかりになったのと母は焦土を歩くみたいに
佐藤文香『菊は雪』
句集。世界から薄皮一枚で隔てられているような疎外感と、それでも世界が好きだという愛情との二つを感じさせるような、澄んだ視線でできている。
書きて折りて鶴の腑として渡したし
雪渓や副流煙を吸ひたがる
山眠る三連プリン三人で
雪少しわたくしはかしこくて暇
だるい春なり魚屋の貝たちの
松村圭一郎他『働くことの人類学【活字版】』
さまざまな民族の「働く」とか「お金」について、座談会形式で話している本。もともとはポッドキャストの番組だったらしい。この本はKindle Unlimitedにも入っている。
今でも貝のお金を使っている社会の話や、狩猟採集民の話とか遊牧民の話とかを聞くと、僕らの考える「働く」とか「お金」についての考えは、たくさんあるうちの一つのパターンにすぎないんだな、と気付かされる。
現代社会の人はだいたい一つの仕事を専業でやっているものだけど、狩猟採集民はそんな僕らのことを「ひとつのことをするやつら」とバカにしている、みたいな話が面白かった。
ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』
人類の歴史を斬新な視点から紹介しつつ、科学の発達によって人間は人間を超える存在になりつつあるかもしれないけれど、大丈夫か、というようなことを論じる本。
博覧強記の著者による面白エピソードがたくさん詰め込まれているから分厚いけれど、論旨はシンプルだ。
現代の社会は人間中心主義という思想に支えられているけれど、それが終わろうとしているかもしれない。AIが人間より賢くなったら、この社会の前提が完全に崩れてしまうんじゃないか。そんな危機感の話だ。
そうなったら世界はどうなるのだろうか。僕は何もよくわからないから全部AIに決めてほしい。
『サピエンス全史』を読んだときも感じたのだけど、ハラリの視点とか語り口は自分好みだな、と思う。なんか、人類の営み全てから距離をとって皮肉ぽく見ているみたいな感じが。
ハラリが自分の研究と自分がゲイであることを関連させて語っている以下の文章が面白かった。
Q: あなたがゲイであるという事実は科学研究に影響を与えましたか?
Q: Does the fact you’re gay influence your scientific research?
はい、とても。ゲイの男性にとって、人が作り出したストーリーと、リアリティとの違いを理解することは極めて重要です。
Very much so. As a gay man, it is crucial to know the difference between stories invented by humans and reality.
『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』の、「人間は虚構のストーリーに従うことで文明を作り出した」という世界観はそんな原体験に底支えされているのだろう。
江永泉、木澤佐登志、 ひでシス、役所暁『闇の自己啓発』
読書会の本。ダークウェブ、監視国家中国、AI・VR、宇宙開発、反出生主義、アンチソーシャルなどについて書かれた本を取り上げつつ、四人が縦横無尽にさまざまな思想やカルチャーを引用しながら、反社会的な与太話を繰り広げる。これを読むと読書会をやってみたくなる。元はnoteの記事。
喋ってる人たちの根本に「この社会での生きづらさ、社会への違和感」が見えるところがいい。
普通の自己啓発というのは結局社会に都合のいい人間を生み出すものなので、そうではなく、さまざまな知識を学ぶことでこの閉塞感のある社会をぶち破りたい、ということで『闇の自己啓発』なのだそうだ。
僕の好みとしては、ものすごく博識でいろんなことを知ってるけど、その人自身がどういう人なのかはよくわからない、という人はちょっと物足りない。この本みたいに語り手の実存が見えるのが好きだ。
劉慈欣『三体』三部作
あまりに面白すぎて、読み終えるのが寂しいから少しずつ読もう、と思ってたけど、面白すぎるのでつい一気に読み終えてしまった。
今年一番面白かった本、というか、ここ10年で一番くらい面白かった本なんじゃないだろうか。この話は一体どこに連れて行ってくれるんだろう、と、読んでる間中ずっとワクワクしていてた。いろんな時間、宇宙、惑星を見せてくれた。
1も面白いんだけど、尋常じゃなく面白くなってくるのは2(黒暗森林)と3(死神永生)なので、ぜひそこまで読んでほしい。
フェルミのパラドックスの答えが鮮やか。途中で、カイジぽくなったり、ひかりごけぽくなったり、滝本竜彦っぽい雰囲気があったりして、日本カルチャーの影響がいろいろありそう。
ラストはもうちょっとあれがああなってもよかったんじゃないか、とも思うけど、作者はああいう展開が好きなんだろうな……。
これくらい面白い本をずっと読み続けていたいのだけど、なかなかこのレベルは他には存在しない。しかたないか。でも、もっと若い頃は、これくらい夢中になる気持ちでたくさん本を読んでた気もする。京極夏彦とか。読書量が増えると新鮮な感動から遠ざかってしまうのか。睡眠を忘れるくらい夢中で本を読みふけりたい。
ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン』
アマゾンの奥地に住むピダハン族の話。めちゃめちゃ面白かった。
ピダハン語はどの言語にも似ていなくて、数や色を表す言葉や、伝聞や、遠い未来や過去を表す言葉がない。彼らは自分が直接体験したことしか興味がないからだ。現在しか見ていない彼らの幸福度はとても高い。
この著者はキリスト教の伝道者としてピダハンのところに行ったのだけど、彼らとともに暮らすうちに自分の信仰心に疑いを持つようになってしまい(ピダハンには「なんで会ったことも見たこともないキリストの言葉を信じているのか」とか言われてしまう)、ついには信仰を棄ててしまうのだ。
この紹介動画がわかりやすくてよかった。ゆる言語学ラジオは面白くてときどき見ている。
www.youtube.com
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リチャード・C・フランシス『家畜化という進化』
イヌ、ネコ、ウシ、ラクダなど、動物たちはどんな風に家畜化していったかを詳しく書いた本。
キツネを家畜化しようとした実験というのがあって、従順なキツネばかりをかけ合わせていくと、ペットにできるくらい人懐っこいキツネが生まれたらしい。
そこで面白いのは、性格が従順になっただけじゃなく、耳が垂れたり尻尾が巻いたり毛の色が変わったりという、飼い犬みたいな身体的特徴が出てきたというところだ。いいな。飼いたい。
遺伝学に大きな影響を与えた「キツネの家畜化」実験をご存じですか?(ブルーバックス編集部) | ブルーバックス | 講談社
進化というのはでたらめに起こるものではなく、ある程度起こりやすい方向に起こるらしい(進化の保守性)。
キツネもイヌも哺乳類だから共通した祖先を持つので、同じような出やすい特徴が出てくるということなのだ。
家畜に見られる類似した形質はまとめて「家畜化表現型」あるいは「家畜化シンドローム」と呼ばれ、従順性、社会性の向上、多彩な毛色(特に白色)、体のサイズの低下、四肢の短縮、鼻づらの短縮、垂れ耳、脳のサイズの減少、性差の減少などが含まれる。家畜化表現型は、人間の存在する環境下で起こる一種の収斂進化であり、それ以外の環境下では起こらない。
なるほど、と思ったのは、家畜化の最初期段階は、人間が家畜化するのではなく、動物自身が勝手に家畜に近づいていくのだそうだ。
どういうことかというと、例えばオオカミからイヌの場合。
人間が集まって住むようになると、オオカミが人間の集落の近くで暮らすことで、残飯を食べたりするチャンスが高まって、生存率が上がるようになった。
そしてその場合、人間の集落の近くで暮らすことができるのは、人間をあまり怖がらない個体だ。そうやって人間をあまり怖がらない個体が増えていく。
つまり、人間の存在によって、人間を怖がらない個体が生きやすいという、新しい淘汰圧が生まれたのだ。これは人間が操作したわけではなく、勝手に起こっていった変化だ。
そしてその中から、人間に積極的に飼われたりするくらい、人になつく個体が出てくるようになって、イヌになっていった。
こういう話、なんかすごく好きなんだよな。
キャスリン・マコーリフ 『心を操る寄生生物』
僕らの行動は寄生生物によって変化している、という話がいろいろ載っている本。
猫に寄生するトキソプラズマの話は有名だけど、それ以外も、インフルエンザウイルスが人を社交的にさせる(そのほうが多くの人に感染して増殖しやすいから)とか、腸内細菌が気分や食欲をコントロールしているとか、吸血鬼のモデルになったのは狂犬病患者(光を嫌う、強い匂いが苦手、水を避ける)だとか、いろいろおもしろい話がたくさん。
クモに寄生して変なかたちのクモの巣を作らせる寄生バチとか本当に精巧ですごいな、と思う。これもランダムな試行錯誤で生まれてきたものなのだけど、信じられない。
クモを操り一方的に搾取する寄生バチ、殺す直前に自分専用の強固な網まで作らせていた(神戸大学研究) : カラパイア
進化というのは生き物単独で起こるものではなく、他の生物との絡み合いが起きながら進んでいくんだよな。
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今年はこんなところでしょうか。来年も面白い本がたくさん読めますように。
こんな感じの本をいつも紹介しているので、この記事が面白かったら新刊の『人生の土台となる読書』も見てみてください。