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中年以降の人生を考えるための5冊
今までずっと、ひたすらラクなことや楽しいことだけをやって生きていきたいと思っていたのだけど、40歳を過ぎた頃から、今までのやり方ではいろいろと行き詰まってくるようになってきました。何をやってもそんなに楽しくない。これからの人生はずっと下り坂が続いていくのだろうか。人生、長過ぎるな……。
そんな感じの中年で思ったあれこれについて書いた新刊が6月5日に出ます。僕の今までの人生を総括するような本になったと思います。
本の発売にともなって、「中年以降の人生を考えるための選書フェア」として、僕が好きな本を5冊を選んでみました。初めての中年や老年を、先人たちの知恵を参照しながらなんとか生き抜いていきたいと思っています。
この選書は、僕がスタッフをやっている東京・高円寺の蟹ブックスという書店で展示する予定です。この内容(選書・コメント)はオープンソースなので、よかったら他の書店の方も使ってください。好きな本を付け加えてもらっても構いません。展示用のポップやペーパーのデータは今月末までに用意します。
↓展示用パネルです。自由に使ってください
https://drive.google.com/file/d/18M6s1CQCGZ-YA-kae2NU2n8EjEJgjSEu/view?usp=drive_link
『パーティーが終わって、中年が始まる』で中年の衰えについて書いたphaが選ぶ、中年以降の人生を考えるための5冊です。加齢の友にどうぞ……!
荻原魚雷『中年の本棚』(紀伊國屋書店)
40代の一冊
中年の入り口に立った著者が、中年はどう生きていくべきかを学ぶために、世の中にたくさんある「中年本」を紹介していく書評集。自分自身の話をしつつも自分を出し過ぎず、本に寄り添う紹介が上手い(僕はもっと自分の話をしてしまう)。四十は「不惑」じゃなくて「初惑」らしい……。
松本大洋『東京ヒゴロ』全3巻(小学館)
東京ヒゴロ - 松本大洋 | ビッコミ(ビッグコミックス)50代の一冊
50代くらいの漫画編集者と漫画家たちの話。かつて輝いていたこともあるけれど、それはもう遠い過去のことで、若さはもう全くない。でも、まだ何かやってみたい、という気持ちはある。そんな男たちが集まってもう一度何かをやろうとする。年をとってもこんな感じの仲間がいれば大丈夫なんじゃないだろうか。
小田嶋隆『諦念後 男の老後の大問題』(亜紀書房)
60代の一冊
定年後、つまり60歳以降の過ごし方について書いたコラム集。小田嶋さんの本は時事コラムが多かったけど、この本は自分がそば打ちとか盆栽とか終活とかをやってみた体験談がメインなのがいい。文章は相変わらず読ませる。「麻雀はネトウヨとでも打てる」という話が好き。
齋藤なずな『ぼっち死の館』(小学館)
【新シリーズ】齋藤なずな『ぼっち死の館』、第1話の無料試し読み! | ビッグコミックBROS.NET(ビッグコミックブロス)|小学館70代の一冊
団地に住む独居老人を描いた短編集。作者も一人で団地に住む70代らしい。タイトル通り孤独死したりもするのだけど、そんなに暗い話ではなく、かといって単純にいい話でもなく、どちらともいえない複雑なのが人生だよな……という気持ちになる作品。
一般的に、年をとると若い頃の切れ味はなくなるものだ。しかし、この作品みたいな、なんとも言いがたいけどなんかいいよな、というものを書けるのは、年をとってからしかできない気がする。そういうものを自分も目指せばいいのだろうか。
山田風太郎『人間臨終図巻(上)』(KADOKAWA)
年をとるたびに読み返す一冊
古今東西の有名人の死に様を享年順に並べた本。誕生日が来るたびにその年齡の部分を読むのが習慣になっています。ちなみに自分の今の年齡、45歳で死んだ人は、井伊直弼、ラスプーチン、三島由紀夫など。大物揃いだな……。
サイン本は蟹ブックスで販売します。他より一週間くらい先行発売するので早く読みたい人はどうぞ。
kanibooks.stores.jp
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面白かった本2023
今年もなんとか年末までたどり着きましたね。毎年書いている今年面白かった本を紹介する記事です。
今年は本屋(蟹ブックス)で働き始めたということもあって、今までよりも幅広い本を手に取った一年だったように思います。あと、去年はなぜか短歌くらいしか読めなくなっていたけど、今年はエッセイとかをまた楽しく読めるようになってきました。うれしい。エッセイを書く気力もわりと戻ってきたので、2024年はまたエッセイ本を出したいなと思っています。まあ、できる範囲でやっていきたいですね。無理せず、死なないように。
マンガ
鶴崎いづみ『私のアルバイト放浪記』(観察と編集)
「私にとってアルバイトは、ふだん垣間見ることのない社会のいろんな側面を見学する、フィールドワークのような意味をもっていた。」
リペアスタッフ、頭部モデル、お掃除スタッフ、水道検針員など、美大を卒業後、作者が十五以上のさまざまなアルバイトを転々とした話を描いたエッセイマンガ。シンプルで淡々とした絵だけど、つい読みふけってしまう魅力がある。
読み味としては、マンガというよりも、文章のエッセイに絵がついていて読みやすくなっている、という感じのほうが近いかも。
大山海『令和元年のえずくろしい』(リイド社)
「地獄のシェアハウスで起きる最悪の群像劇」というキャッチコピーの通り、盗難が起きたり、そこらへんでセックスしていたり、という最悪のシェアハウスの話。起こる事件のひどさや、家賃などのシステムがリアルで、かなり実在のシェアハウスに取材をして描いたのだろうと思う。
生きづらさと過剰なエネルギーを抱えた若者たちが一つの空間に集まって、鬱屈や鬱憤の発散場所がないまま、内部でぐちゃぐちゃになっていく閉塞感がとてもよく描けていて、読後感の悪さも含めて、よかった。
大白小蟹『うみべのストーブ』(リイド社)
ストーブが喋ったり、体が透明になったり、日常の中で少し不思議な現象が起きる短編集。
生きていく中で、何かを失ってしまったり、失う予感を感じたりして、どうしようもなく感情が高まって涙が溢れ出すような、そんな一瞬を伝えるのがとても上手くて、ぐっと感情を揺さぶられてしまう。一篇ごとに最後に付けられている短歌もいい。
坂上暁仁『神田ごくら町職人ばなし』(リイド社)
桶職人、刀鍛冶、紺屋、畳刺し、左官など、江戸の職人が仕事をしている様子を書くマンガ。とにかく画力がすごくて、絵に見入ってしまう。綿密に描かれた桶や刀や畳などを見ているだけで気持ちよくて、ページをめくるのが心地よい。まるで読むドラッグのようだ。
物をひたすら丁寧に描いているマンガ好きなんですよね。古くは鉄工所マンガの『ナッちゃん』とか。
岩波れんじ『コーポ・ア・コーポ』(ジーオーティー)
全6巻完結。大阪の安アパートに住んでいる人たちの群像劇、人間模様、という感じの話。住んでいる人は全員訳ありな感じで、それぞれディープな過去を背負っていたりするのだけど、しんどい境遇を悲劇的に描いたり浸ったりするのではなく、人生とか社会というのはそんなものだから、なんとかできるだけニコニコしながらやっていこう、というタフさを軽い感じで描いているのがとてもいい。アングラ漫画的な泥臭さがありつつ、今っぽい軽さもある作風。
出てくる人たちのリアルさ、会話や境遇や生活感の生々しさを描くのが異常に上手い。登場人物がそれぞれ人生を持って生きている感じがある。
新井英樹『SPUNK - スパンク!』(KADOKAWA)
SMの女王様が主人公のマンガなのだけど、なんだか光に溢れていてまぶしかった。生の肯定だった。
同じ作者の作品では『SUGAR』の石川凛なんかもまぶしかったけど、彼は孤独だった。『SPUNK』の世界は光に溢れつつ、人との繋がりや信頼がある。新井英樹作品では、暴力や殺人やセックスが出てくることが多かったけれど、『SPUNK』ではSMをテーマとすることで、殺伐とした暴力やセックスなどを出さずに、物語の強度を出すことに成功しているように思う。
住吉九『ハイパーインフレーション』(集英社)
全6巻完結。キャラ、ギャグ、博学、頭脳戦、それらの要素の全部盛り感とスピード感がすごくて、この楽しいジェットコースターにずっと乗り続けていたい、と思わされる読書体験だった。他の作家ならこの2倍か3倍の長さをかけてやるであろう頭脳戦を、ぎゅっと圧縮してやっている感じ。全6巻だけど15巻くらいを読んだ気分になれてお得。いろんな要素が全部盛りという点では、読み味は『ゴールデンカムイ』に近いと思った。
改めて最初から読み返して思ったのは、最初の数話で主要キャラが出揃ってキャラも固まっているのがすごい。ラストに到るまで話があまりぶれていないので、かなり準備してから始めて、この長さで終わるということも決めていたんじゃないだろうか。
金の亡者で「大きな赤ちゃん」と呼ばれる悪徳商人のグレシャムが本当にいいキャラなんだよなあ。
『ハイパーインフレーション』が「このマンガがすごい!」オトコ編14位に選ばれました!昨年の11位から連続ランクインです!https://t.co/54lcwFmToW
— 『ハイパーインフレーション』/住吉九 (@sumiyosikyu) 2023年12月11日
今年の3月に連載終了したにも関わらず、ありがとうございます!アニメ化オファー待ってます! pic.twitter.com/AY8kB6HEXl
エッセイなど
古賀及子『ちょっと踊ったりすぐにかけ出す』(素粒社)
子どもたちとの暮らしを描いた日記本なのだけど、やたらと面白い。
面白さが濃い、というか退屈な文章がなくて、次々とテンポよく面白が繰り出されていく。これはデイリーポータルZという面白の激戦区で鍛えられてきた古賀さんならではなのだろうか。ネットだとすぐに読者が離脱するから、これくらいの面白さの密度を求められるのか、と思うとちょっと恐怖を感じるほど。紙の本からは出て来ない文章な気がした。
去年、日記祭というイベントで古賀さんと対談したのだけど、古賀さんは日記を「天に捧げるもの」として書いている、という話が面白かった。「神さま見てますか! 人間はこんなに楽しく生きていますよ! どうぞお納めください!」という感じらしい。
ひらいめぐみ『転職ばっかりうまくなる』(百万年書房)
20代で転職を6回経験したという著者によるエッセイ本。現代社会で生きていくことの大変さや切実さも感じつつも、そこまでシリアスにならずに、最終的にはなんだか楽しい印象が残る書きっぷりがいい。文章がなんだか異常に読みやすくてスムーズに頭に入ってくる。
「体調が悪くなるような会社は辞める」という健全さが頼もしい。仕事の内容よりも、会社の近くに川があると昼休みにのびのびできるのでとてもいい、ということを書いた文章のほうがいきいきとしているのがよかった。倉庫の仕事は空間が広いから気持ちよくて、川のそばにある倉庫で働いているときが最高だった、というくだりを読んで、川のそばの倉庫で働いてみたくなった。
絶対に終電を逃さない女『シティガール未満』(柏書房)
地方から上京してきた著者が、東京のいろんな街について書いていくエッセイ。全体的にテンションが低くて、そんなに大きな夢などもなく、キラキラしたところが全くないのが読んでいて落ち着く。体温が低めではあるけれど、一歩一歩前に進んでいく前向きさはあって、読後感もいい。
坂口恭平『まとまらない人 坂口恭平が語る坂口恭平』(リトル・モア)
同い年というせいもあるのだろうか、坂口恭平のことはなんとなくずっと気になっている。
本もたくさん出しているけれど、ギターを弾いて歌も歌うし、絵も描きまくっている。なんだか好きなように好きなことだけやっている感じがして、うらやましく思うのだけど、その一方でひどい躁鬱に悩まされたりもしているらしい。
そんな坂口恭平が、自分自身について語った本。思考がドライブする感じが伝わってくる。坂口恭平は生きることや考えることが、すべて歌になっているな、と感じた。「やりたくないことをやっていると鬱になる。だから健康のためにやりたいことだけをやっている」という記述を読んで、やっぱりそうだよな、と思った。
川井俊夫『金は払う、冒険は愉快だ』(素粒社)
「俺はこの町で一番頭が悪く、なんのコネやツテもなく、やる気も金もないクソみたいな道具屋だ」
古道具屋をやっている著者による私小説とのことで、とにかく口が悪いのだけど、その荒っぽい口調が気持ちいい。舞城王太郎の『煙か土か食い物』とかを思い出す文体。曖昧な爺さんや婆さんがゴミに埋もれて住んでいて、そういうゴミ屋敷を片付けてずっと「クソが」とか言いながら、かろうじて買い取れるものを拾い出してなんとかしてやる、みたいな日々の話が集められている。
大崎清夏『目をあけてごらん、離陸するから』(リトル・モア)
詩人の大崎清夏さんが書いた、エッセイ、小説、旅行記などが集められている。
とにかく美しい文章を読みたい人にすすめたい。文章のすみずみまで細やかな神経が張りめぐらされていて、張り詰めた感じもあるのだけど、それでいて包み込むような優しさもあって、いつまでもこの文章の中に沈んでいたくなる。
詩集の『踊る自由』も読んだけどそっちもよかった。
小説
川上未映子『黄色い家』(中央公論新社)
普通に生きていた少女が家出をして、ヤバいシェアハウスに住んで、組織的犯罪に手を染めていくというクライムノベル的な話。そういったエンタメ的な話を、純文学的な感性を書ける作家が書いているので、話の展開が面白いのはもちろんのこと、ちょっとした本筋以外のエピソードの描写などもぐっときていい。90年代が舞台。スナックでX JAPANを歌うシーンとか好き。
シェアハウスのリーダー的な役目をやる主人公に共感した。他のメンバーはあまり行動力がない感じで、状況がやばくても自分自身で道を切り開いていくことができない。だから、自分がみんなのためになんとかしないといけない、と思って、主人公はみんながうまくいくようにいろいろがんばる。だけど、自分はみんなのためにいろいろやっているにも関わらず、他の人たちはぼーっとテレビとかを見て笑っていたりして、そういうのに苛ついたりする、というシーンがある。
僕もシェアハウスをやっているときそういう気持ちだったことがあった。みんながちょっとずつこれをこうやってくれればいい感じになるのに、なんで誰もやってくれないんだろう、とか。でもそういうのも自分が勝手にひとりで暴走しているだけなんだよな。
著者のトークイベントを聴いたのだけど、貧困や犯罪を書いているんだけど、社会問題を書きたいわけじゃなくて、世の中にはこういう人がいて、生きている、ということをただ書きたかった、という話がよかった。あと、物語を書くときにイノセンスを最も重要な衝動にしている、という話が印象に残った。『黄色い家』の主人公の花もそうだし、『すべて真夜中の恋人たち』の主人公もそうだったな。
杉井光『世界でいちばん透きとおった物語』(新潮社)
「電子書籍化不可能」という売り文句がついていて、読む前から内容をなんとなく想像していたのだけど、その想像を超えてくる仕掛けがあってすごかった。確かにこれは、今までにないやつかも。文庫オリジナルで20万部売れているらしい。すごい。
読む前に僕が思い浮かべていたのは、Aというミステリ作家の『S』という作品で、おそらくこの作者もその影響を受けているのだけど、『S』よりもさらに徹底していて、「ここまでやるか」という感じだった。『S』ではたしかそんなに大したことなかった、トリックと動機と物語がうまく関連しているのもいい。
小谷野敦『蛍日和』(幻戯書房)
妻のことを書いた私小説「蛍日和」を含む全4篇。淡々と日常の出来事や考えたことを綴っていくだけで、何か大きな事件が起こるわけでもなく、日常エッセイのようにも思える内容なのだけど、なんだか面白くてするする読んでしまう。だけど、なぜ面白いか説明しにくい。ちゃんと事件が起こったりストーリーがあったりする、いかにも小説らしいものが好きな人とは相性が悪そう。小説とエッセイの違いとはなんだろう、ということを考えてしまう。普段、小説とはこういうものだ、とわれわれが考えているものの幅は、必要以上に狭くなっているんじゃないだろうか。
昨今は文学フリマとかで、特に事件が起こるわけではない、日常を書いたエッセイとか日記のZINEが流行っている。純文学でハードカバーの本、というパッケージではなく、そういうZINEの文脈とパッケージに持ってきたら意外としっくりくるのでは、と思ったりもする。
歌集
平出奔『了解』(短歌研究社)
地を這うような歌集だ。人目を気にしてカッコつけたりを全くせず、主観的に「本当に感じたこと」だけに徹底的に寄り添っていて、作者の荒い息遣いが感じ取れそうな歌ばかりが並んでいる、と感じた。この凄みは何なんだろう。
台風がしばらくこない 台風がこなくても思い出せるな 出せる
今やってるこれが恋愛だとしたら、あれもそうだったってなっちゃう
笑うから笑っていてよ、あの頃の、病んでんね(笑)、みたいな言い方で
佐クマサトシ『標準時』(左右社)
不思議な歌集。面白いけれど、何度か読み返さないとうまく理解できない。短歌というゲームにはこんな解法もありますよ、という実験をいろいろ見せられているような気分になる。
クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きというのは嘘だ
AならばBでありかつBならばAであるとき あれは彗星?
晩年は神秘主義へと陥った僕のほうから伝えておくね
枡野浩一・pha・佐藤文香『おやすみ短歌』(実生社)
自分が書いた本だけど、いい本の自信があるので紹介させてください。現代短歌の中から眠りに関する短歌を百首集めて、歌人の枡野浩一、僕、俳人の佐藤文香が、短歌の横に鑑賞文をつけた本です。
短歌って、読み慣れてない人にはどう読んだらいいかわからないことが多いと思うので、「こういうふうに鑑賞すればいいんだ」という文章が添えられているといいな、と昔から思っていました。この本なら、慣れてない人でも読みやすいんじゃないかと思います。
ぱらぱらとどこから読んでも、どこでやめてもいいので、眠る前に読んでほしい本です。装丁は名久井直子さんで、角丸のハードカバーがやさしい手ざわりです。表紙には僕の描いた絵を使ってもらいました。
ノンフィクション
荻上チキ『もう一人、誰かを好きになったとき:ポリアモリーのリアル』(新潮社)
一対一ではなく、複数の人と恋愛関係を持つポリアモリーについて扱った本。荻上チキさんがいろんなポリアモリーの人にインタビューをして、ポリアモリーのさまざまなパターンや、抱えている問題などがまとめられている。
ポリアモリーは、単に「ふしだらだ」とか「不誠実だ」とか扱われてしまいがちだけど、そうではなく、もともとそういう性質を持つ人がいるだけなのだ、ということをきっちりと説明していく。
この本を読んでかなり楽になった気がした。今まで自分自身とポリアモリーをそんなに結びつけて考えたことはなかったのだけど、一対一の関係は閉じた感じがして苦手だ、ということは昔から感じていた。自分は他人に対して独占欲がほとんどないし、独占欲を向けられるのも苦手だった。でもそれは、自分がダメな人間だからそうなのだ、と思っていた。
それでもなんとか頑張って一対一の関係をやってみよう、と思って試したことは何度かある。しかし、大体いつもうまくできなくて相手のことを傷つけてしまって罪悪感を持つだけだった。結局、自分はひとりでいるのが一番合っているのだろう、と最近はずっと諦めていた。
でもこの本を読んで、自分はダメではなく、単に性質が違っただけなのかもしれない、と思った。同性愛の人が異性愛がうまくできないのと同じようなものだったのかもしれない。
ポリアモリーの人は複数の人と特別な親密な関係を持つ、というイメージがあって、僕はそもそも一人とも複数とも特別な親密な関係を持つのが苦手な感じがあって、だからポリアモリーとは違うかも、と思っていたのだけど、でも広義ではポリアモリーの中に入るのかもしれない。
一般的な関係はうまく結べなくても、それでも人となにかの関係を持つことを諦めないでいいのかもしれない、と前向きな気持ちになれる本だった。
鈴木大介『ネット右翼になった父』(講談社)
鈴木大介さんの亡くなった父は、YouTubeのヘイト動画ばかり見るようなネット右翼になってしまっていた。しかし、亡くなったあと丁寧に振り返っていくと、父はそんなに簡単にくくれるものではない複雑さを持ったひとりの人間だった、と気づいていく話。
自分と同世代なので、自分の親世代はこんな感じのところがあるよな、という共感を持って読めた。親としてのロールモデルがないけれど、親としてふるまわなければいけないというプレッシャーはあって、それで不器用に強権的にふるまってしてしまう、みたいな。もっと下の世代だと友達みたいな親子が多いんだろうなと思う。
渡辺努『世界インフレの謎』 (講談社)
今の物価高の原因は、ウクライナの戦争のせいではなく、コロナの頃から始まっていたらしい。コロナにより生産状況などが変化したことによって起こったもののようだ。
日本は90年代なかばから30年くらいずっとデフレだったけど、それは異常で不健全なことで、本当は健全な経済成長を伴う若干のインフレを目指すべきなのだ。
しかしそんなことを言われても、僕の世代はずっとデフレ環境で育ってきたので、そこに最適化してしまって、新しい状況に適応できない気がする。シェアハウスに住んで安いチェーン店でだらだらする、とか、そういう生き方にあまりにも適応しすぎてしまった。新しい時代についていける気がしない……。
『おやすみ短歌』という本を作りました
人気歌人・作家・俳人がコラボし、安眠がテーマの短歌を百首集め、見開きで紹介する現代版「百人一首」。
短い文章付きなので、短歌の読み方がわからなくても楽しめます。
この本のページをパラパラとめくるうち、ここちよい眠りの世界に誘われることでしょう。
僕は短歌が好きなんですが、短歌ってやっぱりちょっととっつきにくいところがあると、ずっと思っていました。どんなふうに解釈したらいいのか、慣れていないとよくわからないところがあります。
そこでこの本では、短歌初心者でも楽しめるように、短歌の横に解説文のような、ミニエッセイのような文章を添えてみました。
僕の書いた文章は、短歌の解説ぽくもあるしい、phaのエッセイぽさもあるような文章になっていると思います。読むと気持ちがラクになって、ゆっくり眠れるような感じを目指しました。
ここからちょっとだけためし読みができます。
あと、『おやすみ短歌』の発売を記念して、僕がスタッフをやっている東京・高円寺の蟹ブックスでは「安眠短歌フェア」を行います。『おやすみ短歌』の内容をポップとして展示するほか、『おやすみ短歌』で紹介している歌集を中心に、一般流通していないレアな歌集も含めて、たくさんの歌集を揃えました。ちょっと短歌に興味あるなーくらいの人も来てくれたらいいなと思っています。
11月12日(日)の14時から16時には、枡野浩一、佐藤文香、phaの三人が蟹ブックスに在店します。サインなどもしますのでぜひ遊びに来てください。
こちらからサイン本の通販も受け付けています。ステッカーもついています。
あと、これはついでなのですが、僕の短歌五十首をまとめた冊子も作りました。
『おやすみ短歌』『少しだけ遠くの店へ』は、11月11日(土)の文学フリマ東京でも販売します。ブース番号はU-27,28(実生社)です。文フリに来る方はぜひー。
pha展など
ここのところ特に発表するあてもなく、なんとなくイラストのようなものを描いていたんですが、そうしたら東京・高円寺のそぞろ書房の人に「展をやりませんか」と誘われたので、展示をしています。
点滅社という、ニートが出版社を作った、というので話題になったりしていた会社があって、
そぞろ書房というのは、その点滅社がやっている本屋のようなものです。
点滅社、詩集とか歌集とかそんなに売れなさそうな本ばかり出していて経営が大丈夫なのか心配になるのですが、こういうよくわからない会社にうまく行ってほしいですね。
展では、僕の絵を元にしたステッカーやポストカードなどを売っています。絵そのものも売っているし、僕の著書も大体売っています。
高円寺には僕がときどき店番をしている蟹ブックスもあるので、そぞろ書房と蟹ブックスを一緒に巡るとちょうどいいと思います。会期中は、そぞろ書房のレシートを蟹ブックスに持っていくと「たしかに」ステッカーをもらえます。
あ、会期は10月4日(水)までです。そぞろ書房の営業日は水、金、土、日になります。
LINEスタンプも作りました。よろしくお願いします。
LINEスタンプできたよhttps://t.co/B01pr0V1ee pic.twitter.com/Pk7SzOTpdv
— pha (@pha) 2023年9月27日
あと、これはまた別のイベントですが、9月30日(土)に、東京・蔵前の透明書店というところで「蟹とくらげの夜 -二人のフリーランスはなぜ、いま書店員になったのか?」というトークイベントをします。配信もあります。
僕が書店員になるのと同時期に、前からミュージシャンかつ俳人として知っていた遠井大輔さんも書店員になっていて、これは奇遇だな、ということで、書店員未経験のフリーランスが今から書店員をやることについて、などを話す予定です。
遠井さんの俳句は以下の本などで読むことができます。
下の動画でキーボードを弾いているのが遠井さん。
書店員として何かを話したりする機会はこれが初めてですね。僕はもともと本も書店も大好きなので、書店にいるだけですごく楽しい。書店員に対する憧れはずっとあったけど、まさかなれるとは思ってなかった。
書店が減っている昨今でも、蟹ブックスや透明書店のように独立系書店と呼ばれる、小さいセレクトショップみたいな感じの書店は増えています。
ただ、書店はそんなに儲かりはしないという問題はあります。でも、だからこそフリーランスとして別の仕事を持ちながら書店をやる、というのは、相性がよくてちょうどいい感じじゃないかと思うんですよね。店番をしながら原稿を書くとか。カフェだけどちょっと本も売ってるとか。書店員になることに興味のある人や、フリーランスが中年から新しいことを始める話などに興味がある人は、ぜひ聞きにきてください。
近況と、有料機能のお試し
はてなブログで有料で記事を販売する機能ができたみたいですね。
僕は無料で記事を公開したいときははてなブログでときどき、有料では定期的に日記をnoteで公開する、というので使い分けていたんですが、日記をはてなでやるのもありかもしれない。noteとはてなの両方で同じ記事を公開していくとかもありだろうか。
* * * * *
というだけでも何なので近況でも。
最近は高円寺の蟹ブックスという小さな書店のスタッフとしてときどき店番をしています。今は毎週水曜はだいたい店番をしていて、それ以外のときもときどき店にいます。
人文系、ノンフィクション、エッセイなどが多い新刊書店です。短歌の本とかは僕が注文していたりもします。
書店員をやるのは初めてなんですが、昔から本屋が好きだったし、お店というものをやるのに憧れていたので楽しいです。数年前から文学フリマで本を売るのをやってるので、その延長的な感じでもあるかも。
シェアハウスをやめてから、普段は一人で家で原稿を書いたりしているだけの生活だったので、なんかゆるく人の集まる場所にいるというのがうれしいのがあります。僕は店とかシェアハウスのような、いろんな人が来たり来なかったりする、オープンな空間が好きなのかもしれない。
いい本屋さんなので、よかったら本を買いに来てください。遠くに住んでいる方のために、通販をやろうという計画もしているのでお待ちください。
そして、はてなブログの有料機能がどんなものか試しに使ってみたいので、蟹ブックスのメンバーで毎月発行している「かにカニCLUB」というZINEに僕が書いている「蟹ブ店番日記」の、第一回と第二回の原稿(2023年5月号と6月号)を、試しにここに置いてみます。書店員として思ったことを書いた1500字くらいの短いエッセイです。よかったら見てみてください。
ツイッターの「おすすめ」に慣れてきた
一時期はあんなに嫌いだった、ツイッターの「おすすめ」タイムラインに、だんだん慣れてきてしまった。
ツイッターにはもともと、フォローしている人のつぶやきが時系列順に並ぶという、一種類のタイムラインしかなかった。
ところがあるときから、ユーザーの好みに合わせてツイッター社がおすすめするつぶやきが並ぶタイムラインが登場した。これが「おすすめ」タイムラインだ(英語では「for you」)。
最初は、「おすすめ」なんて全く要らない機能だと思っていた。
「おすすめ」だとフォローしていない人の興味のないつぶやきが流れてきたりするのがストレスだった。時系列順に並んでないと理解できないつぶやきが意味不明になるのも嫌だった。
ツイッター社は「おすすめ」をやたらとおすすめしてきたのだけど、余計なことをするな、と反感を持っていた。
自分の見たいものは自分で決める。おすすめアルゴリズムなんかに決められたくない。
ツイッター社が経営に困っているなら、多少課金してもいいから、何も加工していない素のタイムラインを見せてくれ、と強く思っていた。
しかし、あまりにもツイッター社がゴリ押ししてきたせいもあるけれど、最近、「おすすめ」でもいいか、と思っている自分に気がついた。
なんとなく拒絶感を持っていたけれど、確かに何も加工していない素のタイムラインを見るより「おすすめ」のほうが面白いかもしれない。
他のサービスを見回せば、ツイッター以外のウェブサービスは、YouTubeもInstagramも、全部おすすめ的なタイムラインを採用している。そして、それはそういうものだ、と思って問題なく見ていた。
それなら、ツイッターがそうなっても別にいいのかもしれない。
ただ、「おすすめ」タイムラインが採用されることで、ツイッターも普通のSNSになってしまったな、と感じた部分はあった。
では、普通のSNSになるまでは、なんだったのか。
多分、誰かが管理するSNSではない、生のインターネットの混沌、みたいなものを自分はツイッターに求めていた。
しかし、その無編集の混沌に、いい加減疲れきってもいたのだと思う。
「おすすめ」タイムラインが快適になってきたのは、アルゴリズムが進化して、よりクオリティが上がったせいもあるのだろう。
しかしそれだけではなく、ウェブの空気感の変化というか時代の変化というか、自分の中で一つの時代が終わったのだ、という感慨がある。
一体何が終わったのだろうか。それは、20年近く前に「Web2.0」という概念がもてはやされた頃に自分に刻み込まれた、「ウェブを利用してよりよい自分やよりよい世界を目指していくべきだ」という観念だ。
今はもう、よりよい自分なんて目指さなくていい。AIのおすすめに従って、AIの与えてくれるものを享受していればいい。
そのほうが、自分で決めるより幸福度が高い気がする。
*
Web2.0というのは2000年代半ば頃に流行した概念で、当時新しく出てきていたブログやSNS、wikiなどによる、新しいウェブの流れを指していた。
大まかな雰囲気としては、
「今までのウェブは技術や資産のある一部の人だけが使えるものだったけれど、今は誰でもブログやSNSを使えるようになった。これからは誰もが平等に発信者になれる時代だ。みんなの投稿でウェブ上に人類の叡智が集まっていって、その集合知を誰でも無料で使えるようになるから、世の中はよりよいほうに変わっていくだろう」
といった感じだ。
とにかく、ここから新しいものが始まっていく、これからどんどん人類の社会は進化していく、という希望に満ちた雰囲気があった。
僕自身も、その雰囲気に大きく影響を受けた一人だった。
会社を辞めて上京したのも、インターネットでいろんな人と繋がって、インターネットに全てを発信していればなんとかなる、と思っていたからだった。
当時は口癖として「インターネットすばらしい」とよく言っていた。ネットには全てがあると思っていた。できるだけ多くのRSSフィードをLivedoor Readerに登録することで、誰よりも世界を把握できると思っていた。
インターネットには、リアルでは吐き出せない本音がたくさん漂っている。上っ面だけの会話をするよりも、ネットを見たほうが人間の本当を見ることができる。
ネット以前の人間は、会社や家庭など、限られた人間としか交流を持てなかった。でも今のわれわれは違う。ネットを使うことで、数千、数万の人間の近況を知ることができる。そうすると、おのずから物の見方も変わってくるはずだ。
少ない人間としか接していないと考え方も偏狭なものになってしまう。それに比べて、ネットで厖大な人間の情報に触れる自分たちは、バランスのよい、視野の広い考え方を身につけられるはずだ。
そう思って、毎日毎日高速で何百何千ものフィードを読み続けていた。ひたすら大量の情報を読むことで、もっとすごい自分になれると思っていた。
ネットに触れることで、どんどん自分が拡張していって、どこまでも行けるような気がしていた。
ちなみに、Web2.0が話題になった時点では、まだスマホもTwitterも登場していない。
当時のウェブの話題の主流としては、みんながブログを書いて、Wikipediaに知識が集積され、グーグルが全てを検索可能にする、すごい、革命的だ、という感じだ。
その後、ゼロ年代の後半にツイッターとスマホが登場し、情報の発信はますます誰でもできる手軽なものになっていく。
一部のギークたちが使うインターネットから、誰もが使うインターネットへ。ユーザーが増えるにつれて、さまざまな企業がネットに進出するようになり、広告などを通じてたくさんのお金が回るようにもなった。
*
それから十数年が経った。
当時よりさらにテクノロジーは進んで、ネットは便利になった。
しかし、今のネットは昔より殺伐としていて疲れるもので、それほど夢のあるものではなくなってしまったと感じる。
今から振り返ると、昔みんながウェブの未来に抱いていた夢は、楽観的すぎたのだろう。
あの頃はなぜ、ウェブが進化するとみんなが幸せになると、あんなに無邪気に信じられていたのだろうか。
結局、Web2.0の描いていた理想というのは、性善説に基づいていたということなのだろう。
一部のエンジニアや新しいもの好きの人たちがネットのメインユーザーだった頃は、それでもうまく回っていた。
みんながネットがよくなるために無償で貢献し、その成果をみんなが無料で受け取ることができた。
現実の資産を全人類に平等に分類するのは難しいけれど、ネット上に置かれた知的な資産は、全ての人類が無料でアクセスできる。
そこには現実世界では実現のできなかった、平等で理想的な世界が広がっているように思えた。
だけど、ネットが一般化して、一部のギークだけではない普通の人たちがネットを使うようになった結果、ユーザーの善意だけではネットの秩序を守れなくなった。現実と同じように。
誰もがツイッターをやるようになって起きたのは、果てしない炎上や不毛な論争だった。
現実では出会うことのない人たちが出会ったり、現実では見ることのない本音にアクセスできるようになった結果、人々は無限にぶつかり合うことになった。ヘイトを煽るようなコンテンツでアクセスやお金を稼ぐ人間も増えた。
ツイッターは、人間の怒りや嫉妬と相性が良すぎた。ツイッターは、人間の集合知を集める場所ではなく、人間の負の感情を増幅させる装置になってしまった。
人間の感情や認識はネットがない世界で発達したものなので、ネットには向いていないのかもしれない。人類にはネットは早すぎた。
制限のないまま人間たちをネットワークの中に放り込むと、トラブルばかりが起こって誰も幸せにならない。
だから、システムの側で、トラブルが起きないように、管理してもらったほうがいいのだろう。AIによるおすすめを見ているほうが、平和で楽しく過ごせるのならそれでいい。
当時、Web2.0について語った代表的な本であった梅田望夫の『ウェブ進化論』(2006、ちくま新書)を開くと、「不特定多数無限大への信頼」というフレーズがある。
これからの時代はネットの向こう側にいる「不特定多数無限大」の人々への信頼が大切だ、という話だ。以下はグーグルの創業者たちが感じた感動についての描写だ。
コンピュータ産業市場第二の「破壊的な技術」インターネットに、つまり、パソコンの向こうに世界中の人々や情報という「無限の世界」が広がっている可能性に十代で出会って感動したのである。不特定多数無限大とも言うべき厖大な数の見ず知らずの人々がネットの向こうに存在することに。そしてその人々との間の相互作用を瞬時に空間を超えて行えることに。いつも世界につながっていることに。世界中に蓄積・更新されている知のすべてにアクセスできる可能性に……。
僕も当時この思想を信じていたけれど、十数年かけてだんだんと、ネットの向こうにいる不特定多数と繋がれば何かすごいことが起きるだろう、という期待はなくなっていった。
そして今では、ネットの向こうの不特定多数の人間よりも、AIのほうが信頼できるような気持ちになっている。
*
『ウェブ進化論』には「知の高速道路」というフレーズも出てくる。これはもともと将棋棋士の羽生善治の言葉から来ていて、誰もがITとネットを使うことで、高速道路に乗って、今まで以上に一気に自分を高めることができる、という話だ。
本の中では「高速道路の向こうの大渋滞」という新しく生じた問題についても語られるのだけど、どちらにせよ、そこにはよりよい未来に向けての希望と向上心が感じ取れる。僕も昔はその思想に共感して、ネットを使うことでより進化した自分を目指していた。
しかし、今はネットを使うことで、自分がよくなっていくような希望や向上心をあまり抱くことができない。
今はツイッターを見てもYouTubeを見ても、自分の好みのコンテンツが無限におすすめで流れてくる。その情報の洪水から感じ取れるメッセージは「特に向上なんてしなくていい。この無限のぬるま湯の中に浸っていればいい」というものだ。
かつての自分にとって、インターネットとは、自分をどんどん自由にして、変化させてくれるものだった。
それに対して今のインターネットは、自分をひたすら自分のままで甘やかしてくれるものになった。
今はもうそんなに成長したいとも思わない。AIがいい感じに調整してくれたコンテンツを見ていればいい。どうせ、AIのほうがこちらよりも有能なんだし、自分で考える必要はない。もう、がんばらなくていい。
そんな自分を、2007年の自分が見たら、堕落した、と蔑むだろう。
ただ、向上心がなくなってしまったのは、ネットの情勢の変化とは別に、自分が単に年を取って、20代から40代に変化してしまったせいなのかもしれない。
今の若い世代は、今のネットの状況でも、「ネットでどんどん面白いことをしていくぞ、俺たちはこれからだ」と思っているだろう。
自分の加齢による変化とネットの情勢の変化がちょうどシンクロしていて、どちらがどれだけ要因になっているのかわからない。
今わかるのは、自分がかつて信じていたやり方は時代遅れになっている、ということだけだ。
どうすればいいんだろう。どうもしなくていいか。
もうがんばらなくていいんだし、全部AIに決めてもらおう。
追記:
ここまで書いたところで、次のニュースを見た。
「おすすめ」に表示されるのが、4月15日から有料ユーザーだけになるらしい。「おすすめ」は結構ありだと思いはじめてきたところだけど、これが実現するとちょっとキツいかもしれない。
イーロン・マスクという一人の大金持ちの意向に左右されてしまうネット空間、これはしんどい。
現世的な価値基準にとらわれず、誰にも支配されない、何者からも自由な理想的なインターネットというものは、やはり存在しないということを実感させられつつあるのだろうか。世知辛い。
(イーロン・マスクがやるといった施策には、本人が言った期限を過ぎてもいつまで経っても実装されないものがたくさんあるので、これも実際どうなるかわからないが……)
自動化された店が苦手になってきた
店で人と話すのが面倒だから、全部セルフレジやセルフサービスになってほしい、と昔から思っていた。人と接すると会話エネルギーを消費する。だから誰とも接触せずに、一言も発さずに外食をしたい。
最近は実際にそういうシステムの店が増えてきた。券売機で食券を買うと、自動的に注文がキッチンに送られて、呼出番号がモニターに表示されたら自分で料理を取りに行く。そして食べ終わったら自分で食器を返却口に返す。大手の牛丼チェーンなどでもそうしたシステムが採用されている店が増えている。
それは自分にとって理想的なはずだったのだけど、ちょっと最近は、あまりにも自動化されているのも嫌かもしれない、という気持ちが出てきた。
例えば大規模チェーンの回転寿司などに行くとそう感じる。最近は醤油にいたずらした動画が炎上したりしていたけれど、ああいう事件が起こりやすい理由はわかる。完全に自動化されていて人間の目がないから、いたずらをしやすいのだ。
店に着くとまず「いらっしゃいませ」という自動音声に出迎えられて、タッチパッドで人数を入力する。レシートが発行されて、そこに書いてある席まで移動しろ、という指示を受ける。カウンターに着席して、紙おしぼりを勝手に取って手を拭いて、湯呑みに粉末状のお茶を入れてお湯を注ぐ。タブレットで寿司を注文すると、レーンを寿司が流れてくる。「ピコーン、ご注文の商品が届きました。気をつけてお取りください」と自動音声が流れる。
それをぱくぱくと食べて、食べ終わったら精算をする。精算もセルフレジだ。機械にお金を投入するとお釣りとレシートが出てくる。自動音声の「ありがとうございました」が鳴り響く中、店を後にする。店に入ってから食事を終えて出るまで、一言も発する必要がない。
こういった一連の、全く人を介さない流れは、自分が理想としていたもののはずなのだけど、そこになんだか殺伐さを感じるようになってしまった。レーンを流れている寿司と同じように、自分もレーンを流れていて、寿司を胃袋に入れてお金を払うだけの機械として扱われている感じがしてしまうのだ。
実際に店からすると、客というのはお金を払う機械で、それをどうやって効率よくさばくかというのが商売なのだろう。大規模チェーンだとさらに、一人ひとりの客を人間扱いしている余裕はなさそうだ。
だけど、それがあまりにも剥き出しになっているとしんどい。もうちょっと、人間らしく扱うふりをしてほしい。人間扱いを求めるならもっと高級な店に行けばいいのかもしれないけど、お金がないと人間扱いされないのは嫌な社会だと思う。
そんなことを感じるのは年を取って中年になったせいなのだろうか。若いうちは元気があるから人とのふれあいなんてどうでもいいけれど、年を取るにつれて生命力が弱ってくるにつれて、寂しくなってコミュニケーションを求めるようになるのだろうか。
加齢によって心情が変化するというのもあるだろうし、育ってきた時代の習慣が抜けないという理由もあるかもしれない。
ときどき、コンビニやファミレスなどのチェーン店で、店員と長々と世間話をしようとするお年寄りを見かける。昔は店の人と雑談をするのが普通だったから、そのときの感覚で話そうとしているのだろう。でも、今のチェーン店はそんな雰囲気じゃないし、そうした時代の変化に慣れていないのだろうな、と思ってしまう。
自分もそんな感じの年寄りになるのだろうか。10年後や20年後、若い人が完全に自動化された接客に特に違和感を持たない中で、僕ら世代の年寄りだけが、「機械の接客は寒々しい」「人の温もりがない」「ディストピア」とか時代遅れな愚痴を言っていて、若い人たちに疎ましがられるのだろうか。
それは嫌だ。時代についていきたい。でも、世代によってついていける限界というのも、あるのかもしれない。
最近、近所のファミレスに行くと、猫型のロボットが料理を運んでくる。これはあまり嫌じゃない。
回転寿司が嫌で猫型ロボットがいいのはなぜだろう、と考えてみると、猫の顔がついていて、「ありがとうニャン」とか、かわいい声で話すからだろうか、と思った。
冷たい感じの自動音声で「道を開けてください」とか言われると、ちょっとイラッとして「機械のくせに態度が大きくないか、人間の野蛮さを見せてやろうか」とか思ってしまうけど、かわいい声で「道を開けてほしいニャン」って言われると、「おお、ごめんごめん、今すぐ開けるね」って思ってしまう。
なんだ、語尾に「ニャン」がつくだけでいいのか。それで満足するなんて、ちょろすぎないか、自分。
でも、結局そういうことなのかもしれない。人間らしく扱われているような雰囲気、それがあればいいのだ。
今は多分まだ、過渡期なのだ。今までの自動音声はわざとらしさや寒々しさが残る印象のものが多かったけれど、これからはそうした印象面の改良が進んでいくだろう。そして、だんだん機械によるコミュニケーションの満足度は上がっていって、接客的な仕事はどんどん人間から機械へと置き換わっていくだろう。
最近話題のChatGPTなどを見ても、AIによるコミュニケーションの進化は目覚ましい。下手な人間よりAIと話したい、という段階がもう訪れつつある。そして、そのAIに、「ニャン」とか「ぴょん」とか、相手のことを気遣う定型句など、印象を柔らかくする文化的なガワをかぶせれば、すぐに人間を超えてしまいそうだ。
それでも、こんなに丁寧な対応をしてくれるけど、これは結局AIなんだよな、と思うと、ちょっと冷めてしまうところはあるだろうか。
ゲームでネット対戦をしていると、ときどきBotが交じっていることがある。Bot相手だと白けるところがちょっとある。負けると悔しがるような、人間に勝って悔しがらせたいのだ。Botだと勝っても負けてもあまり感動がない。でもBotだと思って戦っていたら実は人間だった、ということもあるし、その逆もある。
そもそも、会話をしているのはAIか人間か、どちらかわからないくらいになったほうが面白いと思う。どちらかわからないグレーゾーンがたくさんある、みたいな世の中がカオスでいいんじゃないか。
人間だってどうせ大したことを考えていなくて、反射や癖や定型句で受け答えをしているのがほとんどだし、実はあまりAIと変わらないのだ、きっと。
人間と話すとき、相手の中には心がある、と信じて会話をしているけれど、本当にあるのかはわからない。あるかわからなくても、相手の中に心がある、という雰囲気があればそれで満足する(心とはそもそもなんなのだろう)。
それだったら、AIに人間ぽい感情パラメータや若干のランダム性や相手に気遣いをする定型句を組み込んで、心っぽいものをを持っているような雰囲気を出させれば、コミュニケーション相手として十分な役割を果たしそうだ。
リアルで会うと肉体を持っているかどうかで人間だと認識できるけど、ネットや電話ではどちらかがわかりにくくなる時代が結構近いのでは、と思う。
そしてそのうち、リアルでも人間そっくりの精巧なボディを持ったAIが出てきて、人間とロボットの境目がわからなくなって、ロボットに自我や人権はあるのか、というところで悩むようになるのだ。そんなSFは昔からたくさんあったけれど、その世界に近づいているというのはちょっとワクワクする。
とりあえずそっけない感じの自動音声を全部廃止して、全部演技力のある声優などの声に置き換えて、顔とかをつけて、それぞれの機械がキャラを持っているような外装にするだけでも、だいぶ世界の手触りが変わると思う。
自販機もATMもスマホも車も、全てが自我を持っているような雰囲気がする世界。それは、動物や植物や岩や山にも人格が宿ると信じていた、古代のアニミズムの世界にも近いのかもしれない。
(↑アンドロイドが自我を持って悩むゲーム、おすすめです)
面白かった本2022
毎年年末に書いている、今年面白かった本を紹介する恒例の記事です。
去年の11月に『人生の土台となる読書』というブックガイドの本を出したんですが、去年はその本を書くために大量の本を読みまくってたせいで、書き終わったあと、しばらく反動で「本を全然読みたくない……」という状態に陥っていました。
その時期が11月くらいまで続いていたので、ちょっと今回は少なめです。漫画はあいかわらず読んでいたので漫画を多めにしました。あと文章が読めない時期も短歌は読めたので、歌集もいくつか。そんな感じでお送りします。
漫画
縞野やえ『服を着るならこんなふうに』
ファッションに苦手意識がある主人公が、妹や友人からいろいろアドバイスをもらってファッションの面白さを知っていく漫画。最近ちょっとファッションに気をつけてみようと思っていたので、興味を持って一気に読んだ。
かなり実用的な内容で、買う服の参考になる。ユニクロがとても推されていて、「とりあえずユニクロがあれば一通りなんとかなる」という内容なのが頼もしい。
どういう内容が書かれているかというと、例えば僕は「無地のTシャツってなんか肌着みたいな感じがする」と思って避け気味だったのだけど、この漫画の主人公も同じことを思っていて、でも、漫画の中で「しっかりした生地と形の無地のTシャツはむしろ大人っぽくて万能」というのを解説してくれていて、参考になった。
そして、ファッション知識を得られるだけじゃなく、漫画としても楽しい。嫌なところがなくて嫌な人も出てこないけど面白い。
僕は、いろんなウンチクや雑学が盛り込まれていて勉強になる上に漫画としても面白い、という漫画が昔からすごく好きで、例えば『鉄子の旅(初代)』や『めしばな刑事タチバナ』などをずっと何度も読み返して愛読しているのだけど、『服を着るならこんなふうに』も同じ枠としてとても楽しんでいる。
11巻が「30~60代のファッション編」になっているので、僕と同じような中年男性諸氏におすすめです。この巻だけでも。GUで売ってる1500円のシェフパンツが履きやすくてよかった。
カレー沢薫『ひとりでしにたい』
叔母が孤独死したことをきっかけに終活について考え始める30代独身女子の話。終活についての知識をいろいろ解説してくれる部分もいいんだけど、元カレや同僚男子と対決する心理バトルのパートがすごく良くて、引き込まれてしまった。カレー沢さんはオタクっぽい話とかソシャゲの話とかいろいろなものを書いているけど、こういうのも書けるのか……と驚いて、それからずっと連載を追いかけている。
あちゅむち『エロティック×アナボリック』
ひたすらエロい体を作るために厳しい食事制限や筋トレなどのボディメイクをする女子と、その子をモデルにして絵を描こうとする男子の話。エロい体はたくさん出てくるけどエロい展開は全くなくて、二人ともひたすらストイックに自分の道を追求しているところがすごく好き。筋トレや食事についての雑学も多め。
入江喜和『ゆりあ先生の赤い糸』
50歳既婚女性が主人公で、夫が寝たきりになったり、夫の愛人(男)が発覚したり、自身も恋人ができたりする話なのだけど、ロマンスがメインではなく、ロマンスが他にあってもそれでもなかなか簡単に切れるものではない結婚とか夫婦とか家族という関係性とはなんなんだろう、というところが主軸の物語。ちょっと理想的すぎるところはあるかもだけど、「拡張家族」的な話が好きなので楽しんで読んだ。
安島薮太『クマ撃ちの女』
北海道でハンターとしてクマを撃ち続けている女性主人公の話。狩猟についての知識も面白いし、各キャラの描き方も上手で引き込まれる。自然とのギリギリの戦いの話はいつも面白い。
うすくらふみ『絶滅動物物語』
リョコウバトやドードーなど、人間によって絶滅した動物の、絶滅にいたるまでのエピソードを書いた漫画。勉強になる。学習まんがとして子どもにもすすめたい感じの漫画だ。
高橋ツトム『JUMBO MAX』
違法なEDの薬を作る、自身もEDの薬剤師が犯罪に巻き込まれていく話。高橋ツトムさんの漫画といえば『地雷震』とか『スカイハイ』とか、触れると怪我しそうなくらいに鋭い美男美女が出てくるイメージがあるけれど、今作は冴えないでっぷりとした中年男性が主人公なのがいい。主人公のおっさんが、「理解できるし同情できるところもある」というのと、「こいつヤバいし最悪だ」という二つのどちらともはっきりと決められない得体の知れないままで物語が進んでいくのがスリリング。
香山哲『プロジェクト発酵記』
漫画の連載をする前の、連載の準備についてを、連載にしたという不思議な形式の本。
「読者を想定する」「編集者と意見交換する」「自分のリソースを考える」など、あるプロジェクトを実行するときに、アイデアをどう考えて、どう肉付けして、どういうふうに立ち上げて進行していくか、というやりかたが漫画形式で細かく書かれている。
香山さんの『ベルリンうわの空』は、よりよい生活をするためにはどういう場所がいいか、ということをベルリンでひたすら考えていた本だったけど、今回の本も同じような雰囲気があって、要は何かをするための環境整備オタクなのだ。やる気とか雰囲気とか流れとかでなんとなくやるのではなく、徹底的に前提条件を整備するのが好きな感じで、その整備っぷりが突き抜けているので楽しい。何か新しいことを始めるときに参考になる本だと思う。
エッセイ、ノンフィクションなど
山本文緒『無人島のふたり: 120日以上生きなくちゃ日記』
膵臓がんで突然余命120日と告げられた山本文緒さんが、死の直前まで書いていた日記。山本さんは昨年、58歳で亡くなっている。山本さんの小説は一冊も読んだことがないのだけど、本屋で見つけて気になって買ってしまい、読み始めると引き込まれて、面白い、と言っていいのかわからないけれど、一気に読み切ってしまった。
少しずつ衰弱していきつつも、頭脳の働きは衰えないまま、死へと一歩一歩近づいていく思考が描かれていく。
余命宣告を受けてから世間と隔絶されたように感じて、突然夫と二人で無人島に流されてしまったようだ、というのがタイトルの由来なのだけど、終盤では、「いよいよ夫は本島に戻って、私だけが無人島に残るときが来たのだ」という記述があって、なんとも言えなくなる。
この本を読んでから、「そのうち僕もこんなふうに突然死ぬのだろう」という気持ちが高まってきて、怖い。もう自分はがんになっているのかもしれない、と、一日に何度も考えてしまう。
自分もいつか死ぬんだよな。死ぬ前にやりたいことを全部やっておかないと、と思うけれど、そんなにやりたいことはもうないと言えばないんだよな。この本では、余命120日と告げられた筆者が、「生きているうちにあの本の刊行だけは見たい」と言って、大急ぎで出版をするのだけど。
58歳で亡くなるのは早いなと思う。僕は今43歳なのであと15年か……。しかし、人の介護の話などを聞いていると、80代や90代になって認知症でよくわからなくなって寝たきりで何年も生きるよりは、山本文緒さんのように頭が働いているうちに半年ぐらいの闘病で亡くなるほうがいいのかもしれないとも思ったりする。
でも、そんなのは自分で選べるものではないのだろう。与えられた状況をなんとか生きて行くしかない。とりあえず人間ドックに行こうか。
鶴見済『人間関係を半分降りる』
「友人、家族、恋人など、どんな人とでも近づきすぎるとしんどくなるので、もっと距離を取ろう」ということが書かれた本。
鶴見さんと言えば『完全自殺マニュアル』などが有名で、過激な主張をする人というイメージがあるかもしれないけれど、実際に会って話すととてもおだやかな雰囲気な人だ。この本は鶴見さんの本の中で、一番鶴見さんの人柄がそのまま出ている感じで、とてもよかった。
最近は自分の人生の生きづらさについて書いた本がたくさん出るようになったけれど、鶴見さんが本を出し始めた90年代はそういう本が出る雰囲気ではなかった。心の病なども、みんなが共感できるものではなく、興味本位のキワモノコンテンツとして扱われていた。
そんな時代だったので、鶴見さんの初期の本には社会的な視点が多かったのだろう。そんな鶴見さんが、最新の本では今まで書いてこなかった自身の家族の話などを書いているのが、新鮮でよかった。
刊行記念で僕と対談した動画もあるのでそちらも合わせてよかったら。
小田嶋隆『諦念後 男の老後の大問題』
今年6月に65歳で亡くなってしまった小田嶋さんが、60歳以降の「定年後=諦念後」について書いたコラム集。
内容は蕎麦を打ってみたりジムに行ってみたり病気で入院したりと、「定年後の男たちはどう過ごすべきか」というテーマの話で、そんなにすごいことが書いてあるわけではないのだけど、小田嶋さんの文章はオダジマ節というか独特のグルーヴがあって、そのノリは健在で、楽しめた。文章による芸があった人だと思う。亡くなってしまったのが惜しい。
三宅香帆『それを読むたび思い出す』
書評家である三宅香帆さんの初エッセイ集。自伝的な内容で、誰かにその人の大事な思い出を聞かせてもらうのっていいな、という基本的なエッセイの良さを感じさせてくれて、とてもよかった。
「東京が全ての中心でそれ以外は辺境に過ぎない」みたいな思想への反発として、それぞれの地方にはそれぞれのよさがある、ということを語っている話がいい。著者と同じように地方で育った本好きの人たちへ向けてのメッセージなのだろう。京都の思い出や、ブックオフやイオンモールのよさについて書かれた文章が好き。
岸本千佳『もし京都が東京だったらマップ: くらべて楽しむ「街の見方」』
京都に行ったときに河原町の丸善で買った。もともとはウェブで話題になった記事で、それは前に見たことがあった。
四条大宮は赤羽、烏丸は丸の内、叡電沿線は中央線沿線、とか京都と東京のいろんな街を例えていく本なんだけど、最後に「それでも鴨川だけは東京のどこにも例えられなかった」って書いてあるのがすごくよかった。
東京の街では、池袋はうまく例えられる街がなかったそうだ。確かに、あの池袋の都心だけどなんかごちゃごちゃした多国籍な感じがあって、活気だけはあるけどまとまりはない感じ、京都にはなさそう。
米本和広『我らの不快な隣人 統一教会から「救出」されたある女性信者の悲劇』
著者の米本和広さんは、安倍前首相を暗殺した山上容疑者が犯行前に手紙を送っていた人だ。統一教会を脱会させるために家族が信者を拉致監禁して、「逆洗脳」するというメソッドがあってそれを請け負う人たちもいるらしいのだけど、その拉致監禁でPTSDを発症し、統一教会も家族も両方信じられなくなって、居場所をなくしてしまった人の話がたくさん紹介されている本。
結構キツかった。統一教会にも賛同できないけど「家族の言うことを聞けないのは洗脳されてるからだ」と無理やり拉致監禁してくる家族にも反感を持ってしまう。統一教会も家族推しだし(だから合同結婚式とかさせるし)、家族という概念が一番悪いのではという気持ちになる。
そもそも、「あいつは洗脳されていて話が通じないから監禁して説得するしかない」となってしまうのは、もともと家族間でちゃんとお互いを自立した個人として尊重して話し合うことができていない関係性だったから、ということを思ってしまう内容だった。
「家族も友人も恋人もあまり深くつながりすぎないほうがいい」という鶴見済さんの『人間関係を半分降りる』を中和剤として一緒に読みたい。
米本さんの本は、僕の『人生の土台となる読書』でも少しだけ紹介したのだけど、ヤマギシズムについて追った『洗脳の楽園』、カルト信者の家庭に生まれた子どもを追った『カルトの子』など、どれも面白かった。
田近英一『凍った地球』
夏、すごく暑かったので涼しそうな本が読みたいと思って読んだ本。
ときどき現実逃避的に純粋な楽しみとして、自分の書く文章とは絶対に関係しなさそうな本を読みたくなって、そういうときはこういうサイエンスの本を読んでる。ブルーバックスとか。
この本はスノーボールアースについての本だ。スノーボールアースというのは、この地球は昔全部凍っていたことがある、という仮説だ。まだ仮説だけど、かなり信憑性のあるものと扱われているらしい。
地球は温暖な時期と氷河期を繰り返しているということはなんとなく知っていたけど、その理由をはっきり把握していなかったので、とても面白かった。数十万年とか数百万年単位の気温の上下には、プレートテクトニクスが関わっているのだ。
気温の上下は二酸化炭素による温室効果によって変わる。二酸化炭素は火山活動によって地面から放出されてもいるけど、岩石の酸化作用で気体から固体へと固定されてもいる。
そして、二酸化炭素が増えて気温が上がると岩石の酸化が進んで二酸化炭素を減らす現象が起こり、二酸化炭素が減って気温が下がると岩石の酸化が少なくなって二酸化炭素を増やす現象が起こる、という、自動調節機能が地球には実装されているところがすごく面白かった。これをウォーカーズフィードバックという。すごい絶妙なバランスだ。
(ちなみにこのフィードバックは数万年とか数十万年単位で効果が出るものなので、最近よく言われる人類のCO2放出による地球温暖化みたいな数十年とか数百年単位の話には効かない)
下の気候ジャンプの話も好き。
ある程度寒くなって地表に氷が増えると、氷は日光をよく反射するのでさらに寒冷化が進み、一気に全球が凍結する気候ジャンプが起きるというのが面白い pic.twitter.com/8yKTuXC3NL
— pha (@pha) 2022年6月28日
小説
佐藤究『テスカトリポカ』
アステカ文明で生贄の心臓を捧げてた話とメキシカンマフィアの残虐な抗争と麻薬マーケットや臓器売買マーケットの話が混ざりあって日本の川崎でぐちゃぐちゃになる話。暴力シーンがキツくて人が死にまくって面白くて、分厚い本だけど分厚さを感じさせない。神話的なもの(この場合はアステカ)を引いてくると物語に深みが出る感じがする。後半部分のカオスをもうちょっとじっくり見たかった気もした。
アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』
太陽エネルギーの減少という地球の危機に立ち向かう一人の科学者が主人公のSF。同じ作者の『火星の人』と一緒で、主人公以外の人間があまり出てこなくて、主人公もシンプルな性格なので、流し読みで読んでも筋がわかるし読んでて疲れない。
基本的に一本道の話を進んでいくだけなのであまり驚きはないのだけど、ハラハラしたりワクワクしたり泣きそうになったり、「この本を読んでいけば必ず一定の楽しさが与えられるだろう」という信頼をずっと持ち続けられる作風の小説。作者はウェブ小説出身らしく、確かに読みやすくてウェブ小説ぽくて、日本のなろう系とかとも通じるものがある気がする。
短歌
本を読めない時期も歌集だけは読めたので、今年は歌集ばかり読んでいました。今年の文学フリマで出した『ELITES vol.6 特集 短歌VS小説』という同人誌で、今年読んでよかった歌集として、平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』、伊舎堂仁『感電しかけた話』、雪舟えま『たんぽるぽる (短歌研究文庫)』、吉田恭大『光と私語』、橋爪志保『地上絵』の5冊を紹介したので、それ以外でよかったものを紹介しておきます。
舞城王太郎「短歌探偵タツヤキノシタ」
文学フリマで買ったナナロク社の『若い山賊(仮)』という冊子に収録されていた。ファウスト系+短歌というのがうちのエリーツの企画と丸かぶりだったのでこれが出ると知ったときはびっくりした。
内容は、木下龍也さんが短歌を一首作って、舞城さんがそれに合わせた小説を書くという形式。9歳くらいの少年、タツヤキノシタが主人公で探偵役。思った以上に短歌とがっぷり組み合った内容で面白かった。
驚いたのは、この短編を百本書くらしいということ。短編百本ってすごい。ショートショートとかじゃなくてそれなりの文字数のある短編だったので、百本は一冊に収まらないだろう。全10巻とかで出すつもりなのだろうか。すごいプロジェクトだ。
実際はどうかわからないけど、第一話を見ると、木下龍也さんが作った短歌がまず最初にあって、それを元にして舞城さんが話を考えたように見える、という作品だった。今後どんなふうに続いていくのか楽しみ。
瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』
この20年の短歌シーンを瀬戸夏子さんが概説しながら歌集を紹介していく本。いろんな歌集の歌を解説付きで少しずつ読めてお得な一冊。僕の短歌知識はゼロ年代半ばの永井祐や斉藤斎藤あたりで止まってたので、これを読んで最近の歌集をたくさん知ることができた。
中立的な紹介ではなく、瀬戸さんの好みと独断をばんばん盛り込んでいく思い切った感じがよくて、切れ味のある文章がとにかく痛快。
ここから下は個別の歌集です。
五島諭『緑の祠』
1月27日に安くてコンパクトな版が新しく出るみたい。
物干し竿長い長いと振りながら笑う すべてはいっときの恋
海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海を見ている
歩道橋の上で西日を受けながら 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah
いろいろ歌集を読んだ中で、自分もこういう歌が作れたらいいのに、と一番憧れたのは『緑の祠』だった。激しい感情は少なくて淡々としているけれど、ロマンチスト的なところや言葉でちょっと遠い世界に飛躍しようとしているところがときどき見えるのが素敵。
鈴木ちはね『予言』
スロープと階段があってスロープのほうを下ればよろこびがある
東京に住民票を置かないで住んでたころに見ていた川だ
マンホールの模様に地域性が出るみたいな話をしていたら 海
鈴木ちはねさんの短歌は、淡々と平凡なことを言っているだけのようで、なんかよくて、じっと何回も読んで反芻したくなる。すごくしっかりと周りを観察している人だと思う。ちはねさんの歌を読むことで、その冷静な観察の背後にある人格や人生に少しだけ触れることができた気がして、それがなんだか気持ちを揺さぶるのだと思う。
土岐友浩『Bootleg』
肝心なことはともかく夏草を見てきたことを話してほしい
夕食を終えてしばらくしたあとで普通の服で見に行く蛍
フルーツのタルトをちゃんと予約した夜にみぞれがもう一度降る
土岐さんの歌を読むと落ち着く。無理のない単語と文体でかっこつけない感じなんだけど、読むとなんだか良くて、何度も読み返したくなる。派手なことを何もやってないのに退屈しないのは何故なのか不思議。ずっと大事に持っていたい歌集だ。
枡野浩一『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』
さようなら さよなら さらば そうならば そうしなければならないならば
好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君
そのことを忘れるために今はただ小さいことにくよくよしたい
枡野浩一さんの今までの短歌のベスト版的な歌集。枡野さんの本は今まで短歌の表示のしかたにすごく凝っていた(横書きとか写真と一緒にとか)のだけど、今回の本では初めて普通の歌集みたいに、文字だけで一ページ一首を収める、という作りになっている。そうしたシンプルな作りが、歌の力をより引き立たせている。枡野さんの歌は、失われてしまったものやできなかったことに対する切なさを詠んだ歌が好きだ。
* * *
2022年の面白かった本はこんな感じでした。いかがでしたでしょうか。
今年の終わりくらいから、ようやく歌集と漫画以外の本を読む気力が復活してきたので、来年はいろいろ読んで、また文章を書いていくつもりです。2023年もよろしくお願いいたします。
2022年の活動まとめ
今年は本当に休んでいた一年だった……。
去年の末に『人生の土台となる読書』を出してから、文章を書く気力も読む気力もなくなってしまって、ひたすらだらだらしていた。
思えば僕が最初に本を出したのは2012年で、もう10年前なんですよね。読んだり書いたりも10年やるとさすがに飽きてくるものかもしれなくて、ちょっと休んでもいいかな、と思っていたら、いつの間にか一年経っていた。
生活費としては、以前に出した本の印税の貯金を少しずつ使っているのと、本の電子書籍の売上が半年ごとに入ってくるのと、あとはnoteの売上が月4万くらいある、という感じで、なんとかやっています。
来年はもう少し動いたほうがいいか。いや、あまり自信がないな。
仕事はしていなかったけれど、それなりにいろいろやることがあって忙しくはあった一年でした。
具体的には、バンドと同人誌と短歌の3つです。どれも大してお金にはならないけど楽しかった。
バンド
40代の作家たちで結成した文学系ロックバンド、エリーツも、もう結成から3年以上たちますが、今も仲良く活動しています。今年はライブを4回もやった。がんばった。
作家バンドが集まるSAKKA SONICはまたやろうという話があるのでよかったら見に来てください。
同人誌
今年は本を一冊も出さなかったけど、同人誌は結構作っていました。書く気力はなかったけど、本を作るとか、文学フリマで本を売ったりするのは好きなんですよね。
『曖昧日記』はカオスなシェアハウスに住んでいた頃の日記をまとめたものです。1と2、どちらから読んでも大丈夫です。
あと、エリーツでも文学フリマのたびに同人誌を出しています。
短歌特集号は、僕が全面的にかなり気合を入れて作ったのでよかったら読んで下さい。短歌初心者にも短歌マニアにも楽しめる内容になったと思っています。
短歌
まったく文章を書く気や読む気がしないときでも、短歌だけは頭の中に入ってきたので、20年前の大学時代ぶりに、短歌にハマって作ったり読んだりしていました。
短歌関係では3つ動いていて、1つ目は上で書いたエリーツの短歌特集号の制作、2つ目は第五回笹井宏之賞への応募(残念ながら入賞はしませんでしたが)、3つ目は短歌アンソロジー『おやすみ短歌(仮)』(枡野浩一、佐藤文香との共著)(実生社)の執筆です。
1つ目、2つ目は完了したのですが、3つ目は現在進行中です。2023年中には発表できるはず。
その他
今年の初めのほうは、「文章を書く気がしないならトークとかYouTubeとかをやってみよう」と思ってちょっとやってみていたのだけど、なんか続かなかったな……。いくつか動画が残ってるのでよかったら興味のある人は聴いてみてください。大体雑談です。
* * *
2022年は人生の夏休みのような一年でした。
若い頃のようなエネルギーのあふれる夏休みではなく、晩夏というか、40代も半ばにさしかかってきて、自分はもう若くないということを認めつつ、その上で何をやっていくかをゆっくり考える時期だったというか、そんな感じでした。ちょうどいろいろなことのやり方を変える時期がやってきていたのでしょう。
来年は多分またエッセイとか書くと思います。