phaの日記

パーティーは終わった

自動化された店が苦手になってきた



店で人と話すのが面倒だから、全部セルフレジやセルフサービスになってほしい、と昔から思っていた。人と接すると会話エネルギーを消費する。だから誰とも接触せずに、一言も発さずに外食をしたい。
最近は実際にそういうシステムの店が増えてきた。券売機で食券を買うと、自動的に注文がキッチンに送られて、呼出番号がモニターに表示されたら自分で料理を取りに行く。そして食べ終わったら自分で食器を返却口に返す。大手の牛丼チェーンなどでもそうしたシステムが採用されている店が増えている。


それは自分にとって理想的なはずだったのだけど、ちょっと最近は、あまりにも自動化されているのも嫌かもしれない、という気持ちが出てきた。
例えば大規模チェーンの回転寿司などに行くとそう感じる。最近は醤油にいたずらした動画が炎上したりしていたけれど、ああいう事件が起こりやすい理由はわかる。完全に自動化されていて人間の目がないから、いたずらをしやすいのだ。
店に着くとまず「いらっしゃいませ」という自動音声に出迎えられて、タッチパッドで人数を入力する。レシートが発行されて、そこに書いてある席まで移動しろ、という指示を受ける。カウンターに着席して、紙おしぼりを勝手に取って手を拭いて、湯呑みに粉末状のお茶を入れてお湯を注ぐ。タブレットで寿司を注文すると、レーンを寿司が流れてくる。「ピコーン、ご注文の商品が届きました。気をつけてお取りください」と自動音声が流れる。
それをぱくぱくと食べて、食べ終わったら精算をする。精算もセルフレジだ。機械にお金を投入するとお釣りとレシートが出てくる。自動音声の「ありがとうございました」が鳴り響く中、店を後にする。店に入ってから食事を終えて出るまで、一言も発する必要がない。
こういった一連の、全く人を介さない流れは、自分が理想としていたもののはずなのだけど、そこになんだか殺伐さを感じるようになってしまった。レーンを流れている寿司と同じように、自分もレーンを流れていて、寿司を胃袋に入れてお金を払うだけの機械として扱われている感じがしてしまうのだ。
実際に店からすると、客というのはお金を払う機械で、それをどうやって効率よくさばくかというのが商売なのだろう。大規模チェーンだとさらに、一人ひとりの客を人間扱いしている余裕はなさそうだ。
だけど、それがあまりにも剥き出しになっているとしんどい。もうちょっと、人間らしく扱うふりをしてほしい。人間扱いを求めるならもっと高級な店に行けばいいのかもしれないけど、お金がないと人間扱いされないのは嫌な社会だと思う。


そんなことを感じるのは年を取って中年になったせいなのだろうか。若いうちは元気があるから人とのふれあいなんてどうでもいいけれど、年を取るにつれて生命力が弱ってくるにつれて、寂しくなってコミュニケーションを求めるようになるのだろうか。
加齢によって心情が変化するというのもあるだろうし、育ってきた時代の習慣が抜けないという理由もあるかもしれない。
ときどき、コンビニやファミレスなどのチェーン店で、店員と長々と世間話をしようとするお年寄りを見かける。昔は店の人と雑談をするのが普通だったから、そのときの感覚で話そうとしているのだろう。でも、今のチェーン店はそんな雰囲気じゃないし、そうした時代の変化に慣れていないのだろうな、と思ってしまう。
自分もそんな感じの年寄りになるのだろうか。10年後や20年後、若い人が完全に自動化された接客に特に違和感を持たない中で、僕ら世代の年寄りだけが、「機械の接客は寒々しい」「人の温もりがない」「ディストピア」とか時代遅れな愚痴を言っていて、若い人たちに疎ましがられるのだろうか。
それは嫌だ。時代についていきたい。でも、世代によってついていける限界というのも、あるのかもしれない。


最近、近所のファミレスに行くと、猫型のロボットが料理を運んでくる。これはあまり嫌じゃない。
回転寿司が嫌で猫型ロボットがいいのはなぜだろう、と考えてみると、猫の顔がついていて、「ありがとうニャン」とか、かわいい声で話すからだろうか、と思った。
冷たい感じの自動音声で「道を開けてください」とか言われると、ちょっとイラッとして「機械のくせに態度が大きくないか、人間の野蛮さを見せてやろうか」とか思ってしまうけど、かわいい声で「道を開けてほしいニャン」って言われると、「おお、ごめんごめん、今すぐ開けるね」って思ってしまう。
なんだ、語尾に「ニャン」がつくだけでいいのか。それで満足するなんて、ちょろすぎないか、自分。
でも、結局そういうことなのかもしれない。人間らしく扱われているような雰囲気、それがあればいいのだ。
今は多分まだ、過渡期なのだ。今までの自動音声はわざとらしさや寒々しさが残る印象のものが多かったけれど、これからはそうした印象面の改良が進んでいくだろう。そして、だんだん機械によるコミュニケーションの満足度は上がっていって、接客的な仕事はどんどん人間から機械へと置き換わっていくだろう。
最近話題のChatGPTなどを見ても、AIによるコミュニケーションの進化は目覚ましい。下手な人間よりAIと話したい、という段階がもう訪れつつある。そして、そのAIに、「ニャン」とか「ぴょん」とか、相手のことを気遣う定型句など、印象を柔らかくする文化的なガワをかぶせれば、すぐに人間を超えてしまいそうだ。


それでも、こんなに丁寧な対応をしてくれるけど、これは結局AIなんだよな、と思うと、ちょっと冷めてしまうところはあるだろうか。
ゲームでネット対戦をしていると、ときどきBotが交じっていることがある。Bot相手だと白けるところがちょっとある。負けると悔しがるような、人間に勝って悔しがらせたいのだ。Botだと勝っても負けてもあまり感動がない。でもBotだと思って戦っていたら実は人間だった、ということもあるし、その逆もある。
そもそも、会話をしているのはAIか人間か、どちらかわからないくらいになったほうが面白いと思う。どちらかわからないグレーゾーンがたくさんある、みたいな世の中がカオスでいいんじゃないか。
人間だってどうせ大したことを考えていなくて、反射や癖や定型句で受け答えをしているのがほとんどだし、実はあまりAIと変わらないのだ、きっと。
人間と話すとき、相手の中には心がある、と信じて会話をしているけれど、本当にあるのかはわからない。あるかわからなくても、相手の中に心がある、という雰囲気があればそれで満足する(心とはそもそもなんなのだろう)。
それだったら、AIに人間ぽい感情パラメータや若干のランダム性や相手に気遣いをする定型句を組み込んで、心っぽいものをを持っているような雰囲気を出させれば、コミュニケーション相手として十分な役割を果たしそうだ。
リアルで会うと肉体を持っているかどうかで人間だと認識できるけど、ネットや電話ではどちらかがわかりにくくなる時代が結構近いのでは、と思う。
そしてそのうち、リアルでも人間そっくりの精巧なボディを持ったAIが出てきて、人間とロボットの境目がわからなくなって、ロボットに自我や人権はあるのか、というところで悩むようになるのだ。そんなSFは昔からたくさんあったけれど、その世界に近づいているというのはちょっとワクワクする。
とりあえずそっけない感じの自動音声を全部廃止して、全部演技力のある声優などの声に置き換えて、顔とかをつけて、それぞれの機械がキャラを持っているような外装にするだけでも、だいぶ世界の手触りが変わると思う。
自販機もATMもスマホも車も、全てが自我を持っているような雰囲気がする世界。それは、動物や植物や岩や山にも人格が宿ると信じていた、古代のアニミズムの世界にも近いのかもしれない。

 

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