phaの日記

パーティーは終わった

ツイッターの「おすすめ」に慣れてきた




一時期はあんなに嫌いだった、ツイッターの「おすすめ」タイムラインに、だんだん慣れてきてしまった。


ツイッターにはもともと、フォローしている人のつぶやきが時系列順に並ぶという、一種類のタイムラインしかなかった。
ところがあるときから、ユーザーの好みに合わせてツイッター社がおすすめするつぶやきが並ぶタイムラインが登場した。これが「おすすめ」タイムラインだ(英語では「for you」)。


最初は、「おすすめ」なんて全く要らない機能だと思っていた。
「おすすめ」だとフォローしていない人の興味のないつぶやきが流れてきたりするのがストレスだった。時系列順に並んでないと理解できないつぶやきが意味不明になるのも嫌だった。
ツイッター社は「おすすめ」をやたらとおすすめしてきたのだけど、余計なことをするな、と反感を持っていた。
自分の見たいものは自分で決める。おすすめアルゴリズムなんかに決められたくない。
ツイッター社が経営に困っているなら、多少課金してもいいから、何も加工していない素のタイムラインを見せてくれ、と強く思っていた。


しかし、あまりにもツイッター社がゴリ押ししてきたせいもあるけれど、最近、「おすすめ」でもいいか、と思っている自分に気がついた。
なんとなく拒絶感を持っていたけれど、確かに何も加工していない素のタイムラインを見るより「おすすめ」のほうが面白いかもしれない。
他のサービスを見回せば、ツイッター以外のウェブサービスは、YouTubeもInstagramも、全部おすすめ的なタイムラインを採用している。そして、それはそういうものだ、と思って問題なく見ていた。
それなら、ツイッターがそうなっても別にいいのかもしれない。


ただ、「おすすめ」タイムラインが採用されることで、ツイッターも普通のSNSになってしまったな、と感じた部分はあった。
では、普通のSNSになるまでは、なんだったのか。
多分、誰かが管理するSNSではない、生のインターネットの混沌、みたいなものを自分はツイッターに求めていた。
しかし、その無編集の混沌に、いい加減疲れきってもいたのだと思う。


「おすすめ」タイムラインが快適になってきたのは、アルゴリズムが進化して、よりクオリティが上がったせいもあるのだろう。
しかしそれだけではなく、ウェブの空気感の変化というか時代の変化というか、自分の中で一つの時代が終わったのだ、という感慨がある。
一体何が終わったのだろうか。それは、20年近く前に「Web2.0」という概念がもてはやされた頃に自分に刻み込まれた、「ウェブを利用してよりよい自分やよりよい世界を目指していくべきだ」という観念だ。
今はもう、よりよい自分なんて目指さなくていい。AIのおすすめに従って、AIの与えてくれるものを享受していればいい。
そのほうが、自分で決めるより幸福度が高い気がする。


 *


Web2.0というのは2000年代半ば頃に流行した概念で、当時新しく出てきていたブログやSNS、wikiなどによる、新しいウェブの流れを指していた。
大まかな雰囲気としては、

「今までのウェブは技術や資産のある一部の人だけが使えるものだったけれど、今は誰でもブログやSNSを使えるようになった。これからは誰もが平等に発信者になれる時代だ。みんなの投稿でウェブ上に人類の叡智が集まっていって、その集合知を誰でも無料で使えるようになるから、世の中はよりよいほうに変わっていくだろう」

といった感じだ。
とにかく、ここから新しいものが始まっていく、これからどんどん人類の社会は進化していく、という希望に満ちた雰囲気があった。


僕自身も、その雰囲気に大きく影響を受けた一人だった。
会社を辞めて上京したのも、インターネットでいろんな人と繋がって、インターネットに全てを発信していればなんとかなる、と思っていたからだった。
当時は口癖として「インターネットすばらしい」とよく言っていた。ネットには全てがあると思っていた。できるだけ多くのRSSフィードをLivedoor Readerに登録することで、誰よりも世界を把握できると思っていた。
インターネットには、リアルでは吐き出せない本音がたくさん漂っている。上っ面だけの会話をするよりも、ネットを見たほうが人間の本当を見ることができる。
ネット以前の人間は、会社や家庭など、限られた人間としか交流を持てなかった。でも今のわれわれは違う。ネットを使うことで、数千、数万の人間の近況を知ることができる。そうすると、おのずから物の見方も変わってくるはずだ。
少ない人間としか接していないと考え方も偏狭なものになってしまう。それに比べて、ネットで厖大な人間の情報に触れる自分たちは、バランスのよい、視野の広い考え方を身につけられるはずだ。
そう思って、毎日毎日高速で何百何千ものフィードを読み続けていた。ひたすら大量の情報を読むことで、もっとすごい自分になれると思っていた。
ネットに触れることで、どんどん自分が拡張していって、どこまでも行けるような気がしていた。


ちなみに、Web2.0が話題になった時点では、まだスマホもTwitterも登場していない。
当時のウェブの話題の主流としては、みんながブログを書いて、Wikipediaに知識が集積され、グーグルが全てを検索可能にする、すごい、革命的だ、という感じだ。
その後、ゼロ年代の後半にツイッターとスマホが登場し、情報の発信はますます誰でもできる手軽なものになっていく。
一部のギークたちが使うインターネットから、誰もが使うインターネットへ。ユーザーが増えるにつれて、さまざまな企業がネットに進出するようになり、広告などを通じてたくさんのお金が回るようにもなった。


 *


それから十数年が経った。
当時よりさらにテクノロジーは進んで、ネットは便利になった。
しかし、今のネットは昔より殺伐としていて疲れるもので、それほど夢のあるものではなくなってしまったと感じる。
今から振り返ると、昔みんながウェブの未来に抱いていた夢は、楽観的すぎたのだろう。
あの頃はなぜ、ウェブが進化するとみんなが幸せになると、あんなに無邪気に信じられていたのだろうか。


結局、Web2.0の描いていた理想というのは、性善説に基づいていたということなのだろう。
一部のエンジニアや新しいもの好きの人たちがネットのメインユーザーだった頃は、それでもうまく回っていた。
みんながネットがよくなるために無償で貢献し、その成果をみんなが無料で受け取ることができた。
現実の資産を全人類に平等に分類するのは難しいけれど、ネット上に置かれた知的な資産は、全ての人類が無料でアクセスできる。
そこには現実世界では実現のできなかった、平等で理想的な世界が広がっているように思えた。


だけど、ネットが一般化して、一部のギークだけではない普通の人たちがネットを使うようになった結果、ユーザーの善意だけではネットの秩序を守れなくなった。現実と同じように。
誰もがツイッターをやるようになって起きたのは、果てしない炎上や不毛な論争だった。
現実では出会うことのない人たちが出会ったり、現実では見ることのない本音にアクセスできるようになった結果、人々は無限にぶつかり合うことになった。ヘイトを煽るようなコンテンツでアクセスやお金を稼ぐ人間も増えた。
ツイッターは、人間の怒りや嫉妬と相性が良すぎた。ツイッターは、人間の集合知を集める場所ではなく、人間の負の感情を増幅させる装置になってしまった。
人間の感情や認識はネットがない世界で発達したものなので、ネットには向いていないのかもしれない。人類にはネットは早すぎた。
制限のないまま人間たちをネットワークの中に放り込むと、トラブルばかりが起こって誰も幸せにならない。
だから、システムの側で、トラブルが起きないように、管理してもらったほうがいいのだろう。AIによるおすすめを見ているほうが、平和で楽しく過ごせるのならそれでいい。


当時、Web2.0について語った代表的な本であった梅田望夫の『ウェブ進化論』(2006、ちくま新書)を開くと、「不特定多数無限大への信頼」というフレーズがある。
これからの時代はネットの向こう側にいる「不特定多数無限大」の人々への信頼が大切だ、という話だ。以下はグーグルの創業者たちが感じた感動についての描写だ。

コンピュータ産業市場第二の「破壊的な技術」インターネットに、つまり、パソコンの向こうに世界中の人々や情報という「無限の世界」が広がっている可能性に十代で出会って感動したのである。不特定多数無限大とも言うべき厖大な数の見ず知らずの人々がネットの向こうに存在することに。そしてその人々との間の相互作用を瞬時に空間を超えて行えることに。いつも世界につながっていることに。世界中に蓄積・更新されている知のすべてにアクセスできる可能性に……。


僕も当時この思想を信じていたけれど、十数年かけてだんだんと、ネットの向こうにいる不特定多数と繋がれば何かすごいことが起きるだろう、という期待はなくなっていった。
そして今では、ネットの向こうの不特定多数の人間よりも、AIのほうが信頼できるような気持ちになっている。


 *


『ウェブ進化論』には「知の高速道路」というフレーズも出てくる。これはもともと将棋棋士の羽生善治の言葉から来ていて、誰もがITとネットを使うことで、高速道路に乗って、今まで以上に一気に自分を高めることができる、という話だ。
本の中では「高速道路の向こうの大渋滞」という新しく生じた問題についても語られるのだけど、どちらにせよ、そこにはよりよい未来に向けての希望と向上心が感じ取れる。僕も昔はその思想に共感して、ネットを使うことでより進化した自分を目指していた。
しかし、今はネットを使うことで、自分がよくなっていくような希望や向上心をあまり抱くことができない。


今はツイッターを見てもYouTubeを見ても、自分の好みのコンテンツが無限におすすめで流れてくる。その情報の洪水から感じ取れるメッセージは「特に向上なんてしなくていい。この無限のぬるま湯の中に浸っていればいい」というものだ。
かつての自分にとって、インターネットとは、自分をどんどん自由にして、変化させてくれるものだった。
それに対して今のインターネットは、自分をひたすら自分のままで甘やかしてくれるものになった。
今はもうそんなに成長したいとも思わない。AIがいい感じに調整してくれたコンテンツを見ていればいい。どうせ、AIのほうがこちらよりも有能なんだし、自分で考える必要はない。もう、がんばらなくていい。
そんな自分を、2007年の自分が見たら、堕落した、と蔑むだろう。


ただ、向上心がなくなってしまったのは、ネットの情勢の変化とは別に、自分が単に年を取って、20代から40代に変化してしまったせいなのかもしれない。
今の若い世代は、今のネットの状況でも、「ネットでどんどん面白いことをしていくぞ、俺たちはこれからだ」と思っているだろう。
自分の加齢による変化とネットの情勢の変化がちょうどシンクロしていて、どちらがどれだけ要因になっているのかわからない。
今わかるのは、自分がかつて信じていたやり方は時代遅れになっている、ということだけだ。
どうすればいいんだろう。どうもしなくていいか。
もうがんばらなくていいんだし、全部AIに決めてもらおう。

 


 

追記:
ここまで書いたところで、次のニュースを見た。


news.livedoor.com


「おすすめ」に表示されるのが、4月15日から有料ユーザーだけになるらしい。「おすすめ」は結構ありだと思いはじめてきたところだけど、これが実現するとちょっとキツいかもしれない。
イーロン・マスクという一人の大金持ちの意向に左右されてしまうネット空間、これはしんどい。
現世的な価値基準にとらわれず、誰にも支配されない、何者からも自由な理想的なインターネットというものは、やはり存在しないということを実感させられつつあるのだろうか。世知辛い。

(イーロン・マスクがやるといった施策には、本人が言った期限を過ぎてもいつまで経っても実装されないものがたくさんあるので、これも実際どうなるかわからないが……)