phaの日記

毎日寝て暮らしたい

ウェブ日記を公開するということのやらしさ



 あともうひとつ、「これをどんなに日記に書こうか」という思いには「これをどんなに日記に書いたらみんなは俺を羨ましがるだろうか」とか「どんなに日記に書いたらみんなは俺をセンスのいい人間だと思ってもらえるだろうか」とかそういった自意識の影が含まれている。他人に自慢することでしか自分の幸せを実感できないような感性の貧しさが自分の中にもあるのを見つけて、嫌だと思った。
 そんな自意識過剰で卑怯な態度を僕は「やらしい」と言ってるんだけど、これは大阪弁なのかな。他の地域の人にも伝わるのだろうか。
 例えば内田樹の日記はすごくやらしいと思う(なんかさー、こんな美味しいもの食べましたとかさー、こんな有名な方々と仲良くなりましたとかさー、女子大生に囲まれて飲み会しましたとかさー、ムッキー! ちょううらやましい!!)。でも内田樹はやらしいんだけど、ときどきすごく面白いことを書いてるし、ただ単純にやらしいだけではなく老獪で一筋縄で行かない感じで「こいつには勝てんな」と思わされてしまうところがあるので「このエロオヤジめ!」と思いつつ毎日読んでるんだけど。
 僕は最初ウェブ日記をつけるにしても、やらしい内容を書かなければいいんじゃないか、と思っていたけれど、そうではなくてものを書くということが全部やらしいのかもしれない、とも思うようになった。

人生を“半分”降りる―哲学的生き方のすすめ (新潮OH!文庫)

人生を“半分”降りる―哲学的生き方のすすめ (新潮OH!文庫)

 の中で中島義道が、太宰治の「親友交歓」(→青空文庫)という短編を高橋源一郎が評した文章(追記:『文学じゃないかもしれない症候群』に収録されているそうです。)を引用して、文章を書いて発表することはどう転んでも不正義で暴力的なものなのだ、ということを論じている。その部分丸ごと引用したいのだけど、打ち込むのが面倒なので、重要な部分だけ引用してみる。以下は中島義道の文ではなく高橋源一郎が書いた文です。興味を持った人は上記の本を買って読んでみるといいと思います。

 もの書く人はそれだけで不正義である――作家太宰治のモラルはこのことにつきている。物を書く。恋愛小説を書く。難解な詩を書く。だれそれの作品について壮大な論を書く。政治的社会的主張を書く。記事を書く。エッセーを書く。そして、文芸時評を書く。どれもみな、その内実はいっしょである。見よう見まねで、ものを読みものを書くことにたずさわるようになって数十年、ちんぴらのごとき作家のはしくれであるぼくがいやでも気づかざるをえなかったのはそのことだけである。もの書くということは、きれいごとをいうということである。あったかもしれないしなかったかもしれないようなことを、あったと強弁することである。自分はこんなにいいやつである、もの知りであると喧伝することである。いや、もっと正確にいうなら、自分は正しい、自分だけが正しいと主張することである。「私は間違っている」と書くことさえ、そう書く自分の「正義」を主張することによって、きれいごとなのである。もの書く人はそのことから決して逃れられぬのだ。

 全くそうだと思う。
 でもまあ、それを気にしだすと日記なんてすぐにやめるべきものなんだけど、そこまで潔癖に考えなくてもいいか、とも思ったからまたここにこんなことを書いてるんだけど。ウェブ日記というのは自分の自意識とかくだらなさが直で発露するものなんだけど、そういうくだらない部分も自分なんだからそれを楽しむというのはあってもいいかな、自分はどうせくだらない人間なんだしと思った。くだらない欲望に身を任せるのって楽しいしね。内田樹的なスノッブさとかも絶対楽しいはず。
 ただ、ウェブに日記を書いて公開するというのはそういう自分のくだらない部分が出てるということは、自覚しておきたいと思う。そうしないと自分の醜さとかに気づかず暴走してしまうおそれがあるので。自分の放っている腐臭に敏感にならなければいけないと思う(結構すぐ腐るからね!)。
 あと、上の太宰治の文章が書かれたときはもちろん、高橋源一郎の文が書かれた時点でもブログなんてものはなく、こんなに誰でもが文章を書いて不特定多数の人に見せられる状況なんてものは想定されていない。文章を書いて公開するということはかなり毒性を持つものなのに(自分に対しても、他人に対しても)、それがこんなに多くの人に開かれているという状況は結構怖いよな。まあわれわれはもうそれ以前には戻れないわけですが。
 おわり。