phaの日記

なんとかなりますように

ども

 ども、ご意見ありがとうです。この高橋源一郎の文章は『文学じゃないかもしれない症候群』に収録されているんですね。知らなかったのでありがとう。

 ゆがんでいない生のピュアな体験なんてないだろう、と思いますがどうでしょうか。

 全くゆがんでいない全くのピュアな体験があるか、と言われれば僕も自信がないんですが、その体験の最中に、これをどんなに他人に伝えようかとかこれをどんなに記録に残そうかとかそんな類のことを全く1ミリも考えない、他者とか時間とかそういうものが全く消失したような体験はいくつか思い出せます。旅行をしたときとか、ライブを見たときとか。多分僕はそのような体験を基準点にして上の文章を書いています。
 そのような体験のもとでは、他者も時間もどうでもいいものだし、自分というものもどうでもいいし、自分というものの殻が溶けてしまって、どこまでが自分でどこからが外界かとかどうでもよくなるような感じ(精神的にも物理的にも)。エクスタシー(ecstasy)の語源は「ある状況(stase)から外に出て行く(ex)」というような意味らしいですが、その語源にちょうど当てはまるような感じです(あーそういう体験最近してない! こわばった顔になってる!)。
 で、思考や言語化を行うことでそんなエクスタシーから疎外されている気がする、と思うのです。
 そんなに関係ない気もするけど、宗教についての話にも同意です。そんな無理に勧誘するのは逆効果で、その人自身が堂々としてて自然に幸せそうだったらこちらから興味を持つのにね、と思う。


shim
ウェブ日記はリアルの体験を貧しくしないか
俺は結構逆だなー。
どんな面白い体験をしても、
それを日記としてまとめる時点で
「こんなん書く価値ねえな」とか
「文書にまとめるのがめんどくさいな」とか思って
結局書かないことが多いな。
だから日記を更新しないわけですが。
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Ebis
 なにごともなくてよかた。

 日記というかなにがしか記述したり記録したりすることを意識することによって己の体験そのものが貧しくなるかどうかは知らんけどたとえそうだとしてもその日記を読んでるひとたちがあーおもろいなあと思うことによって世界全体の幸福の総和が増えればそれでいいんでないの、と以前から思っとるす。んで、余談ですけどブータンのひとも幸福の総和って考え方をするってのをこないだ知って、あーやっぱあそこはいい国だなとおもた。

「やらしい」ってのは名古屋のほうでも使いますよ。「いやー、でもそおゆうことゆうとやらしいもんでやめといた」とかそんな感じで。
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pha
>shim  そうかー。俺は「もっとみんな俺のことを見て! 俺すごいでしょ?」ってところがある人だからな。日記を書かないほうが真っ当な気がしたりしているんだが。
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pha
>えびすさん 「世界全体の幸福の総和」かー。それはいい考えかもしれない。僕は多分そんなことを考えてなくて「自分がどれだけ注目されるか」とかしか考えてなかったんですが、それが知らずに世界全体の幸福の総和に貢献するということもなくはないと思う。世界全体というところまではうまく想像力が働かないけど、自分の周りの数十人に対して何かをしたいという気持ちはないではない。それに基づいて行動することは良いと思うし、今までだってそういう部分はあったと思う。でも、できれば会って酒飲んだりして話したいなー。文字ではなく。
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pha@酔っぱ
しかし俺がこんな風に文章によって自意識を満足させるようなあり方になったのは大学2回生のときにA・N嬢に「何か書いてみない?」とか言われて会誌のようなものに文章を載せるようになってからの成り行きなんだろうなあ。そのときはもちろんブログなんてなかったんだけど。
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そんなこと書いてる暇があるならさっさと死ねばいいのに。
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torityu
私の君に対して思ってたかわいらしさは、なんとなくのイケてなさというか(笑)自問自答や言葉で埋めるところがあるけど、でもなんかぽわぁっとした間の抜けた感じがかわいいと思ってたんだわ。チャーミングだと思うよ。でも確かに「どんな風に日記にかこう」とか、その場をリアルで体感するより写真とってしまうとか、なんか逃してる感出るのはわかるよ。ひとまずネットとか忘れて集中できるといいんけどね。表現しようとする虫が自分の中にいるとなかなかねぇ。
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pha
>とりちゅうさん
返事が遅くなってすんまそん。あーなんかねー。うひゃー。
自分の中のものを表現したいという欲はあんまり今はないです。人に認められたい欲はあるけど。
そんで表現というものは言葉を使って考えたり感じたりしている限り、二流でしかいられない気がする(言語芸術においてさえも)。もっと言葉以前の段階でなんとかしないといけないと思っています。結局言葉というのはデジタルだからな、と思う。
内田樹http://www.tatsuru.com/diary/yogiri/yg0111.htmlの11月11日のところの文章が俺はとても好きです。表現というものに関して。