ども、ご意見ありがとうです。この高橋源一郎の文章は『文学じゃないかもしれない症候群』に収録されているんですね。知らなかったのでありがとう。
ゆがんでいない生のピュアな体験なんてないだろう、と思いますがどうでしょうか。
全くゆがんでいない全くのピュアな体験があるか、と言われれば僕も自信がないんですが、その体験の最中に、これをどんな風に他人に伝えようかとかこれをどんな風に記録に残そうかとかそんな類のことを全く1ミリも考えない、他者とか時間とかそういうものが全く消失したような体験はいくつか思い出せます。旅行をしたときとか、ライブを見たときとか。多分僕はそのような体験を基準点にして上の文章を書いています。
そのような体験のもとでは、他者も時間もどうでもいいものだし、自分というものもどうでもいいし、自分というものの殻が溶けてしまって、どこまでが自分でどこからが外界かとかどうでもよくなるような感じ(精神的にも物理的にも)。エクスタシー(ecstasy)の語源は「ある状況(stase)から外に出て行く(ex)」というような意味らしいですが、その語源にちょうど当てはまるような感じです(あーそういう体験最近してない! こわばった顔になってる!)。
で、思考や言語化を行うことでそんなエクスタシーから疎外されている気がする、と思うのです。
そんなに関係ない気もするけど、宗教についての話にも同意です。そんな無理に勧誘するのは逆効果で、その人自身が堂々としてて自然に幸せそうだったらこちらから興味を持つのにね、と思う。