何事もなかったかのようにだるい。
ウェブ日記を書くこと
日記を休んでみようと思ったのは、なんかいろいろうざかったというのもあるけど、日記を書くこと自体にちょっと疑問を持っていたというのもありました。
一つは日記を書いて公開するということに関するやらしさ。もう一つは体験を文字に記録すること(を意識すること)が体験を貧しくするのではないかということ。ということについて書きたいことはあるのだけど、書くのがめんどい。
追記:書いた↓
ウェブ日記はリアルの体験を貧しくしないか
ということがちょうど最近気になっていた。ウェブ日記をつけるようになってもう4年くらいになるけど、いつの間にか何か面白いことがあったりどこか旅行に行ったりしても「これをどんな風に日記に書こうか」ということを常に考えるようになっていたりした。それが極端になると、回線が繋がっていなくて日記が更新できない状態だと、自分の体験したことは全部意味がないのではないか、とまで思えてきそうだった。
何か美味しいものを食べても、それの写真を撮って日記にアップして「とっても雰囲気の良いお店でした」とか書いて、コメント欄で誰かが「うわーすごく美味しそう! 今度行ってみます♪」とか書いてくれないと、本当に美味しいものを食べたような気がしないような感じ。旅行に行ってもちゃんと毎日ネットカフェに寄って更新しなきゃ、とか思ったりしてたんだけど、それはやっぱり何か歪んでいる。
体験の最中にそんなことを考えてちゃ、何か本当の体験を取りこぼしているんじゃないか。体験をしているときは、それを言葉でどう表せば他人に伝わるかとか、それを他の人が羨ましいと思ってくれるだろうかとか、そんなことを考えずにもっと体験に全面的に身を開かなければいけない、そんなことしてるから何をやっても微妙に面白くないような気がしてるんじゃないかな、と思った。それで、半年前くらいから旅行に行っても旅行記とかは書かないようにして、カメラも持っていかないことにした(写真を撮って友達に見せるというのも同じ心性なので)。
中島敦の小説の、下のような一節を思い出したりしていました。
獅子といふ字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子といふ字を覺えた獵師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙ひ、女といふ字を覺えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くやうになるのではないか。文字の無かつた昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歡びも智惠もみんな直接に人間の中にはひつて來た。今は、文字の薄被をかぶつた歡びの影と智惠の影としか、我々は知らない。
中島敦『文字禍』
ウェブ日記を公開するということのやらしさ
あともうひとつ、「これをどんな風に日記に書こうか」という思いには「これをどんな風に日記に書いたらみんなは俺を羨ましがるだろうか」とか「どんな風に日記に書いたらみんなは俺をセンスのいい人間だと思ってもらえるだろうか」とかそういった自意識の影が含まれている。他人に自慢することでしか自分の幸せを実感できないような感性の貧しさが自分の中にもあるのを見つけて、嫌だと思った。
そんな自意識過剰で卑怯な態度を僕は「やらしい」と言ってるんだけど、これは大阪弁なのかな。他の地域の人にも伝わるのだろうか。
例えば内田樹の日記はすごくやらしいと思う(なんかさー、こんな美味しいもの食べましたとかさー、こんな有名な方々と仲良くなりましたとかさー、女子大生に囲まれて飲み会しましたとかさー、ムッキー! ちょううらやましい!!)。でも内田樹はやらしいんだけど、ときどきすごく面白いことを書いてるし、ただ単純にやらしいだけではなく老獪で一筋縄で行かない感じで「こいつには勝てんな」と思わされてしまうところがあるので「このエロオヤジめ!」と思いつつ毎日読んでるんだけど。
僕は最初ウェブ日記をつけるにしても、やらしい内容を書かなければいいんじゃないか、と思っていたけれど、そうではなくてものを書くということが全部やらしいのかもしれない、とも思うようになった。
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人生を“半分”降りる―哲学的生き方のすすめ (新潮OH!文庫)
- 作者:中島 義道
- メディア: 文庫
の中で中島義道が、太宰治の「親友交歓」(→青空文庫)という短編を高橋源一郎が評した文章(追記:『文学じゃないかもしれない症候群』に収録されているそうです。)を引用して、文章を書いて発表することはどう転んでも不正義で暴力的なものなのだ、ということを論じている。その部分丸ごと引用したいのだけど、打ち込むのが面倒なので、重要な部分だけ引用してみる。以下は中島義道の文ではなく高橋源一郎が書いた文です。興味を持った人は上記の本を買って読んでみるといいと思います。
もの書く人はそれだけで不正義である――作家太宰治のモラルはこのことにつきている。物を書く。恋愛小説を書く。難解な詩を書く。だれそれの作品について壮大な論を書く。政治的社会的主張を書く。記事を書く。エッセーを書く。そして、文芸時評を書く。どれもみな、その内実はいっしょである。見よう見まねで、ものを読みものを書くことにたずさわるようになって数十年、ちんぴらのごとき作家のはしくれであるぼくがいやでも気づかざるをえなかったのはそのことだけである。もの書くということは、きれいごとをいうということである。あったかもしれないしなかったかもしれないようなことを、あったと強弁することである。自分はこんなにいいやつである、もの知りであると喧伝することである。いや、もっと正確にいうなら、自分は正しい、自分だけが正しいと主張することである。「私は間違っている」と書くことさえ、そう書く自分の「正義」を主張することによって、きれいごとなのである。もの書く人はそのことから決して逃れられぬのだ。
全くそうだと思う。
でもまあ、それを気にしだすと日記なんてすぐにやめるべきものなんだけど、そこまで潔癖に考えなくてもいいか、とも思ったからまたここにこんなことを書いてるんだけど。ウェブ日記というのは自分の自意識とかくだらなさが直で発露するものなんだけど、そういうくだらない部分も自分なんだからそれを楽しむというのはあってもいいかな、自分はどうせくだらない人間なんだしと思った。くだらない欲望に身を任せるのって楽しいしね。内田樹的なスノッブさとかも絶対楽しいはず。
ただ、ウェブに日記を書いて公開するというのはそういう自分のくだらない部分が出てるということは、自覚しておきたいと思う。そうしないと自分の醜さとかに気づかず暴走してしまうおそれがあるので。自分の放っている腐臭に敏感にならなければいけないと思う(結構すぐ腐るからね!)。
あと、上の太宰治の文章が書かれたときはもちろん、高橋源一郎の文が書かれた時点でもブログなんてものはなく、こんなに誰でもが文章を書いて不特定多数の人に見せられる状況なんてものは想定されていない。文章を書いて公開するということはかなり毒性を持つものなのに(自分に対しても、他人に対しても)、それがこんなに多くの人に開かれているという状況は結構怖いよな。まあわれわれはもうそれ以前には戻れないわけですが。
おわり。
つづき
ども - phaの日記
ども
ども、ご意見ありがとうです。この高橋源一郎の文章は『文学じゃないかもしれない症候群』に収録されているんですね。知らなかったのでありがとう。
ゆがんでいない生のピュアな体験なんてないだろう、と思いますがどうでしょうか。
全くゆがんでいない全くのピュアな体験があるか、と言われれば僕も自信がないんですが、その体験の最中に、これをどんな風に他人に伝えようかとかこれをどんな風に記録に残そうかとかそんな類のことを全く1ミリも考えない、他者とか時間とかそういうものが全く消失したような体験はいくつか思い出せます。旅行をしたときとか、ライブを見たときとか。多分僕はそのような体験を基準点にして上の文章を書いています。
そのような体験のもとでは、他者も時間もどうでもいいものだし、自分というものもどうでもいいし、自分というものの殻が溶けてしまって、どこまでが自分でどこからが外界かとかどうでもよくなるような感じ(精神的にも物理的にも)。エクスタシー(ecstasy)の語源は「ある状況(stase)から外に出て行く(ex)」というような意味らしいですが、その語源にちょうど当てはまるような感じです(あーそういう体験最近してない! こわばった顔になってる!)。
で、思考や言語化を行うことでそんなエクスタシーから疎外されている気がする、と思うのです。
そんなに関係ない気もするけど、宗教についての話にも同意です。そんな無理に勧誘するのは逆効果で、その人自身が堂々としてて自然に幸せそうだったらこちらから興味を持つのにね、と思う。