phaの日記

パーティーは終わった

東南アジア現代史について



 こないだホーチミンベトナム戦争戦争博物館を見てベトナム戦争というものにちょっと実感が湧いたので、今まで曖昧にしか知らなかった東南アジア現代史をお勉強。

東南アジアの植民地化

19世紀末にはタイ以外全部白人の植民地に

 ベトナム・カンボジア・ラオス→フランス
 ビルマ→イギリス(インドに併合)

インドシナ戦争ベトナム戦争

1945年 日本軍が撤退
ホーチミンが北ベトナムに国を作る VS 南ベトナム=フランス(インドシナ戦争
1954年 ディエンビエンフーの戦い
フランスが撤退→フランスの代わりにアメリカが南ベトナムを支援
1960年 - 1975年 ベトナム戦争

クメール・ルージュ政権(カンボジア

  • ポル・ポト
  • 1975年〜1979年(ベトナムの侵攻で崩壊→親ベトナム政権の樹立)

クメール・ルージュは、「革命の恩恵は農村の労働者に与えられるべき」という視点から、階級が消滅した完全な共産主義社会の建設を目指すと称して、都市居住者、資本家、技術者、知識人など頭脳階級から一切の財産・身分を剥奪し、郊外の農村に強制移住させた。学校、病院および工場も閉鎖し、銀行業務どころか貨幣も廃止し、宗教も禁止し、一切の私財を没収した。さらに一切の近代科学を否定した。

すげえ。

移住させられた人々は、強制労働収容所より小さい「集団農場」で農業に従事させられる一方、知識人階級は反乱を起こす可能性があるという理由で殺害された。反乱を企てた農民も殺され、反乱の首謀者になる可能性があるリーダー格の人間も殺された。革命が成功したことを知り、国の発展のためにと海外から帰国した留学生や資本家も、やはり殺された。また、子供は親から引き離して集団生活をさせ、幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた。クメール・ルージュは、米軍の爆撃の結果生じた大量飢餓から人々を救って食糧を自給できるように地方への移住を行った、と主張して自らの行為を正当化した。
クメール・ルージュ - Wikipedia

中越戦争

この背景には当時の中ソ対立も絡んでおり、ベトナムにはソ連が、カンボジアには中国がそれぞれ後ろ盾となっていた。そこで中国の訒小平は 開戦を決断した。

  • 1979年2月 中国がベトナムに侵攻したが
  • ベトナム戦争を勝ち抜き、更にソ連からの援助を受けていたベトナム軍は強かった
  • 中国撤退

殺すな

 戦争博物館にあった。これは見たことあったけど岡本太郎の書いたものだというのは知らなかった。


AKAHATA

 これも戦争博物館にあった。