phaの日記

パーティーは終わった

蟄居



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冬で調子が悪いせいかちょっとしたことにいらいらしやすくなっている。
「自分は寛容でいろんな人を受け入れられる」みたいに思ってた時期があるけど、よく考えたら嫌いな人間はいっぱいいるし別に寛容じゃない。普通くらいか。寛容でいなければならないと義務感みたいなのを持ってたせいだろうか。
「人と人を繋げなければいけない」とか「この人にもこの人を紹介しなきゃ」みたいなことに、何か義務感のようなのが昔からあって、いつも妙に焦ってしまう。よく考えたら別にやらなくてもいいことなのかもしれないけど。まあ、やってよいことになる場合もあるだろうけど。
今よりも付き合う人の幅を狭めて自分が面白いと思う人間だけ相手にするようにしてもいいのかもしれない。世の中にはつまんない人間はいっぱいいる。人間の性格なんて赤ちゃんの頃に大体決まってるし合わない奴は合わないから合わせるだけ無駄とも思う。
でも、自分より器の大きい人間を見たときに憧れる気持ちもあるなあ。自分が興味ない人間ともそれなりの妥協点を見つけてうまく利用し合えるようになれたら、そのほうが強いなと思う。社会的生物として。


人間が自由に物を考えて自由に判断して選択してるというのは怪しくて、かなり周りに影響されたり惰性で続けたりしてるものだなと思う。人の動きには粘性があってなかなか移動しないし変化しない。
東浩紀さんが「人間は一緒に事業を営むことでしか連帯できない。共通の思いや考えに基づく連帯って、いっけん深いように見えて、とてももろい。なにも基盤がないからすぐ壊れる」ということをTwitterで言っていて、それが最近よく気になる。
僕としては、事業に限らずシェアハウスなどで生活を共同にするのもそれに含まれるんじゃないかと思うけど、ただしそれも簡単に引っ越せるとわりとすぐ崩れるので、みんな引っ越しに腰が重いという前提が必要なのかもしれない。
自由な人間が自由に連帯して何かをやるみたいなの、不可能だなーと思う。一部の恵まれた人、意志と思想と体力に恵まれた一人で何でもエネルギッシュにこなせる人には可能だとしても、ほとんどの人には無理という点で。