phaの日記

パーティーは終わった

表音文字しかない寂しさよ



 語学を身につけるためにできるだけ日本語は使わずに暮らそうとしているのだが、ついつい暇つぶしのときに日本語でネットや新聞を読んでしまう。暇つぶしのときに読むものを日本語から英語(タイ語はまだ読めない)に切り替えようとしたことは何度もあるのだけど、なんかどうしても日本語を、例えばdel.icio.usよりもはてなブックマークを読んでしまうのよな。それは、日本語で書かれた日本のニュースのほうが文の意味も背景もわかりやすいというのもあるんだけど、読むときに表音文字しかないのが寂しいんじゃないかとも思っている。
 英語もタイ語も(その他多くの言語も)、音を表すだけの文字しか持たない。それは日本語で言ったらひらがなしかないようなものだ。なんか味気ないんだよね。表意文字(漢字)を見たときの、ビジュアルが「ギュンッ」と脳に入ってきてその字に格納されているイメージが脳内で「パーッ」と開くときの麻薬的な感覚、それがない。そういう感覚が欲しいんだと思う。
 言語というものはそれぞれ、ある点において単純でもその他の点で複雑さを確保しているもので、別に表意文字を持たない言語が単純だというわけではない。日本語が漢字を使用することで一つの音の中にたくさんの同音異義語を詰め込んでいるように(ex. かい=会、回、貝、階、下位、甲斐....)、タイ語では5つの声調や多彩な母音、有気音と無気音の区別などによって、限られた音声空間の中にたくさんの意味を割り振っている(それに比べれば日本語は音声的にはなんて単純なんだろうと思う)。英語はなんだろう。子音の連続させ具合とか前置詞の使い勝手の良さとかかな。でも、他の言語もそれぞれに複雑さや面白さを持ち合わせているんだけど、小さい頃から日本語を読んで育ってきた僕の脳は多分、表意文字を読む快感に慣れすぎてしまってそれがないと物足りないのだ。
 んー、しかしやっぱり身内びいきかもしれないけれど、漢字、ひらがな、カタカナを併せ持つ日本語のシステムはかなり優れているのではないかと感じてしまうなあ。漢字超便利。柳瀬尚紀が「翻訳不可能と言われた世紀の奇書『フィネガンズ・ウェイク』を日本語に訳すことができたのは日本語が天才だからだ」と言っていたが、それに同意したい気分です。
 そういう日本語の特殊さが日本人が外国語を学ぶハードルを高くしているとも思うけどね。