ここ数ヶ月間、興味がずっと「あたまとからだ」という問題に向いている。あたまとからだはどちらも自分なのだが、全然違う原理で動いていて、ときどき相反するようだ。
最近興味を持っていたものや読んだ本、例えば内田樹や竹内敏晴やヨガ(ヨガはちょっと違う気がせんでもないが)やテーラワーダ仏教などは全てこの「あたまとからだ」という問題について語っている。それぞれの説いていることの重心は違う場所にあるが、大まかに言うとみんな「あたまでっかちになるな」という方向を向いている。
まとめる気がしないので以下断片的にだらだら書いてみる。
- あたまは過去や未来を持っているが、からだには現在しかない
「あたまとからだ」という分類は、ある程度「意識と無意識」という分類ともかぶっているかもしれない
集中力というのは身体性と強い繋がりがある気がする。集中力というのは過去も未来も顧慮せずにただ現在の一点に感覚を集中するようなことだろう。
僕は集中力が極めて弱いので、身体感覚を磨くといいかもしれない。
僕は歩いているとよく人にぶつかったり、段差も障害物も何もないところで足をくじいたりするのだけど、これはいかにからだをないがしろにしているという証拠だろう。
今まではあまりにもあたまでっかちすぎたなあ、という反省がある。歩くときも「歩く」という抽象的な概念しか意識していなくて、実際にどんな風に足が動いて体重が移動して視野が揺れているかということを全然捉えていない。だから「歩く」というがよく分かっていなくてうまくいかないし、同じように「食べる」「洗う」「座る」なども全然できていなかった。
からだが感じる感覚(筋肉がどう収縮しているかとか、からだの重さがどんな風にかかっているかとか、あたりの雰囲気とか)を大事にしながら動くと、それはもっとも効率がよくて、しかも美しくいものになるのではないかという気がする。丁寧とはそういうことじゃないかと思う。
身体性を見失うと不安定になる。その状態を何とかしようとしてからだに強い刺激を与えようとする無理な行為が、間食であったり無理なスポーツであったり、ジャンクフードや酒煙草の摂取だったり、自傷行為だったりするのだろうと思う。本当はそんな強い刺激を受けなくてもからだをしっかり感じることは普通にできるはずだ。俺もついついジャンクフードを食べてしまったりするのだけど。
幻影肢とかをよく例に引きたがる人はあたまのからだに対する優位ということにこだわりがあるのだろう。
からだを見失ってる状態:やたらと落ち着きがなくうわずった声しかでなくて、マンガを立ち読みしたくなったり歩いている女の子を眺めてばかりいたり、携帯ではてなアンテナを30分に一回チェックするようなそんな状態から抜け出る方法を知っときたい。
ついついジャンクフードを食べてしまい後で気持ちが悪くなるという、くだらないことを何回も繰り返してしまうというのは、あたま(舌→脳)が欲する食べ物とからだ(胃腸を筆頭とする脳以外の部分)が欲する食べ物が違うからだと思う。からだを無視してあたまの食べたいものばかり食べてると気分が悪くなる。
性欲というのはからだの範疇ではなくあたまの範疇の問題だ。だから「あたまではなくからだに判断を任せる」というのは別に「理性で抑えることをせずにやりたくなったらやる」とかそういうことにはならない。
テーラワーダ仏教によると、お釈迦様は「思考は毒」だというようなことを言っていたらしい。あたまは想像力を持っているので、現実を突き抜けて暴走する。現実のありのままを認識することができない。例えば、人が死ぬのも物が壊れるのも、自分が世界でただ一人特別な人間でないのも自分が必ずしも幸せになれるわけでないのも、当たり前のことだけど、人間はそれを認められないので苦しむ。想像力が現実から遊離し、現実をありのままに認識することができないということが人を疲れさせる。だからテーラワーダ仏教では無駄な思考を止めることを推奨し、そのために身体感覚に基盤を置く瞑想(→ヴィパッサナー冥想)をする。からだは現実から遊離しないからからだをひたすら意識する。
俺が変に疲れやすいのはどうでもいい思考のループを常にあたまの中で回しつづけてるからじゃないかな、と最近思ってるんだよね。だからテーラワーダ仏教の教えがツボにはまった。暇だとくだんない思考ばっかしてるから、ちょっと忙しくしてみようかと思ったりしています。
ヨガですっきりする理由のひとつはヴィパッサナー瞑想と同じかもしれない(理由のひとつに過ぎないけど)。ヴィパッサナー瞑想ではできるだけゆっくりとからだを動かして身体感覚を心の中で実況中継しつづけることで思考を追い払う。ヨガはストレッチでからだを限界まで伸ばしたり曲げたりするのでその負荷で感覚がいっぱいになるし、そのうえで呼吸をできるだけゆっくり行って呼吸に意識を集中するので、考えごとをしている余裕などがなくなる。
考えごとをしたくない。本とか読みたくない。考えずに、からだで感じられてからだを使うような何かをしていたい。というのが最近の気分です。荷物を運ぶとか猫と遊ぶとか。
おやすみなさい。