大澤真幸の『身体の比較社会学』(ISBN:4326100842)の最初のほうにたしか、人間の身体意識(自分の身体をモニターする意識)というものは、現実の物理的な身体の範囲を超えて拡がりうるということを示す実験がいくつか紹介されていた。
比重が人体と同じで温度も人間の体温と同じ温度の液体が入ったプールを用意し、その部屋は真っ暗で静かな状態にして、実験体の人が全裸になって目も耳も塞いでそのプールの中に浮かんで漂うという実験があったらしい。要するに感覚を全く遮断してしまった状態だ。その状態でしばらくいると、どこまでが自分の体でどこからがそうでないのかがわからなくなってきて、自分というものが拡散していってなくなってしまうように感じる、というような結果だったはずだ。自分という存在の「枠」は外部との接触や刺激によって認識されているが、刺激がないとどこまでが自分かなんてわからなくなってしまうものらしい。身体意識の範囲とは、はっきりと決まっているわけではなく、わりとあやふやに変化しうるものらしい。
他には、友達が頬を叩かれると自分の頬が痛くなるという5歳くらいの女の子の話があったと思う。これは身体意識が他人にまで拡がるという例だけれど、この話は一般的に考えてもそれほど奇妙な感じはしないのではないだろうか。誰だって基本的には、他人が痛い目に遭っているのは嫌なものだ。僕はテレビや映画で注射のシーンが出てくるとウヒャーッて顔をしかめてしまう。人間の基本的な他者への共感能力や優しさなどは、こういった身体性(の拡張・共有)が基盤になっているんじゃないかと僕は思っている。
あと、切断されてなくなってしまった腕が痛くなる幻肢(phantom limb)の話もあったはずだ。これは、現実の身体が損なわれているのに身体意識がそれについていっていないということなのだろうか。『脳のなかの幽霊』ではなんといってたんだっけ。
(『身体の比較社会学』で紹介されてた実験ってこれくらいだっけ?)
身体意識の拡張についてもっと親しみやすい例としては、武器や楽器をなどの道具を持っている人のことを挙げられるかもしれない。武器や楽器を振ったり演奏している人は、その身体意識を武器や楽器のところまで拡張している。ギターを夢中で弾いている人のギターに他の人が触ったら、弾いている人は自分の体に触られたように感じるはずだ(アイスクリームをギターにくっつけたら反射的に「冷たい!」って言うかもしれない)。
こんな風に身体意識というものは実際の肉体の範囲に限定されているわけではなくその範囲以上に広がったり他人と共有したり拡散してなくなってしまったりしうるものらしいのだが、それで何が言いたいかというと、合気道というものはこの「身体意識の範囲の拡張(拡散)」というテクニックをかなり使う武道なんではないかと思っている。
相手の体を自分の体と別のものとして倒してしまうのではなく、相手の体と自分の体をひとつにすることをイメージするようによく言われる(それを「気を結ぶ」という言い方をしたりする)。
うまい人にこれをやられると、やられた方も「あ、なんかつなげられてしまった」って感じるのです。それでなんか誘い込まれたように感じて誘われるままに突っ込んでいってしまい、相手が息を吸うと同時にこちらも息を吸い(吸わされ)、相手が息を吐くと同時にこちらも息を吐いて(吐かされ)コロンと投げられてしまう。不思議だよねー。
どうすればこれができるかというと、よくわからない。難しい。「触れ合う前から自分の体が相手の体と繋がってるイメージを持て」とよく言われる。あと、うちの先生の言葉としては
- 「相手の中に入りこむんや」
- 「自分をパーッと開かないと相手の中に入れない」
- 「相手をいったん全部受け入れてやるんや」
ということをよく言われる。これらはすべて、自分とか相手とかをはっきりと分かれたものとしてわけるんじゃなくて、もっと開かれた状態であれってことだと思う。「自分自分自分自分」とか「俺が俺が俺が俺が」とか思ってると駄目なのです。
合気道が柔道とか空手と一番違うところってこういうところなんじゃないだろうか(他の武道はあんまり知らないけど)。単なる格闘技で終わるのではなくダンスなどにも繋がっていくようなところがあると思う。こういうのが面白くて合気道をやってる。