phaの日記

パーティーは終わった

世界の皆さんごめんなさい感



 8月初めに電車に乗っていて考えていたこと。ネガティブなことを書いてるけど別に悶々と悩んでいるわけではなくて、自分にはこういう傾向があるなあ、と確認しているだけですので読んだ人は心配しないでください。俺の乗っているマシンはカーブを曲がるときに左にブレる癖があるな、ふーん、メモメモ、というような感じ。
 そういえばいつも、車掌さんが検札に来て切符を見せるときに少し誇らしげな気分になる。それはたぶん、「ほら、僕ちゃんと切符持ってるでしょ。きちんと正規の切符持ってるでしょ。インチキなんかしてないよ。偉いでしょ。ちゃんとしたお客さんでしょ。ねえ」ということを車掌さんに対して思っている。もちろん口には出さないけど。そのときはを飲んでいたので、そういう非合理な感情を強く感じることができる状態だった。を飲むとそういう自分の根本に刻まれたものが出てきやすい。
 CD屋などに行って入口の万引き防止用のゲートをくぐるときも同じようなことを思う。「ほら、何も鳴らなかったでしょ。万引きなんてしてないよ。何も買わなかったけど別にお金がないわけじゃなくて、本当に欲しいCDにはお金を惜しまないし、たまたま今日買おうとまで思うほどのものがなかっただけなんです。また今度何か買うから許してください。お願いします」とか思っている。ゲートをくぐるときいつも少し緊張している。
 そんなことを過剰に考えてしまうのは、その逆の想念を否定したいからだろうと思う。つまり、自分は周りの人に対して何か悪いことをしているのではないか。自分はここにいてはいけないのではないか。みんな自分のことを邪魔者だと思っているのではないか。という気持ちが自分の中にある。
 実際にはキセルも万引きもしてないし、過去にしていたわけでもないし、したいとも思ってないんだから、そんな罪悪感を感じる実際的な根拠はない。根拠があってそういう感情が発生するのではなくて、まず最初に抽象的な「世界の皆さんごめんなさい感」が自分の中に最初からあって、でもそれは根拠のない非合理なものだから、「自分はキセルをしているんじゃないか」とか「自分は万引きをしているんじゃないか」とか、抽象的な曖昧な気分を説明する具体的な理由を現実世界から探してきてるんだろう(ごくろうさん)。
 例えば「頭の中で自分以外の声がする」という実体のない症状について、文化的な文脈によって「狐憑き」だとか「降霊」だとか「電波」だとか、その症状を説明することができる(ように本人に思われる)ラベルが貼られるのと同じでしょう。
 つまり具体的な原因と思われるキセルや万引きへの懸念は本質ではなくて、根本に無条件に「世界の皆さんごめんなさい」感があるというのが問題なのでしょう。
 なんでそんなものがあるのでしょうか。
 あんまり愛情を受けずに育ったせいだろうか。内田樹がブログで「橋本治とか村上龍とか私(内田樹)みたいに小さい頃に親に無条件に愛されて育った人は無条件な肯定感を植えつけられているから、周りに変な奴だとか白い目で見られてもどんなに嫌われても気にせずに自分のやりたいことをのびのびとやることができる」って書いてあったんだけど、そういうことなのか。肯定感とか欠如してるな、俺は。
 それとも育つ過程において、自分の見本となるような、肯定感や無条件な自信を持って生きている人が周りにいなかったせいだろうか。それもありそうな気をする。
 あと「世界の皆さんごめんなさい生まれてきてすみません」とか感じてしまう人間が自分が役立たずな分まわりに対して謙虚になるかというとそうではなくて、何でもっと俺を尊重してくれないんだ俺が世界の中心にいるべきなのに、とか周りに憤ったりする傲慢な人間であったりするというのは太宰治を読むとよくわかる通りですね。
 ふーん、俺ってそうだったのか。参考になった。